浄土宗 伝授山 長応院


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第23回  ゆっくりと生きる

物質事象の早さがめまぐるしいと思いませんか。ネット社会も拍車に掛けて増々物、情報が飛び交って、時に我を失いかける事はありませんか。物が便利になっても悩みは未だに解決しません。そんな世に、釈迦も法然も動じません。何故なら、世の理を知っているからです。自身の存在も含めて全ての事はつながり移り変わっているという事以上のあたふたはその自身の執着、愚かさにあるのです。その火さえおさまれば結局なんでもない、安らぎが得られる訳です。さて、そうは中々いかないのが現状です。そこで法然が言う訳です。ひたすら弥陀の慈悲救済の願いにすがれと。人間の欲望の街は変わりません。法然が比叡山から街へおりてこれだ!と悟った事は。昔も今も変わらない生活なのです。私達は知りましょう。世の理を。それさえつかめば、穏やかに、安らぎを持って生活出来ます。変わらないのですから、のんびり、ゆっくり精進といきましょうよ。事の重大さは身辺にころがっているものですよ。物質の進化はあっても世の理は何も変わりませんから。「こころ」次第です。

目の前の物が無くなるマジック、これはデジタル技術の現状です。果たしてその目の前の物は無くなったのか。人間は何を見ようとしているのか。言えば、視覚は正確か。本物か。実在とは何だろう。六感の一つとして視覚は最も敏感ですが、それだけでは物を感知出来ません。総合的な感覚として、最終的には心と言う感光材が判断します。仏教では、実体は無い、とまで言ってしまいます。つまり、目の前の物は、あろうが無かろうが、心が判断しているので、シャットダウンしてしまえば物は無いという事になります。私達も生活の中で、ぐるぐると眼球を自然と動かしていますが、どれだけ認知しているのでしょうか。誠に持って、心が見ている事を感じる訳です。その「こころ」、しっかりと大切にして行きたいものです。


2012年9月3日