浄土宗 伝授山 長応院


住職の豆コラム

アーカイブ

住職の豆コラム

第111回「不可視なものへの興味と畏れ」

見えないものへの興味は人間誰にでもあるでしょう。仏教であってもその教えは、手に取って分からないものですが、寺の伽藍や仏像などがあってどこかその輪郭を得ているでしょう。美術が難解なものといっても目の前にピカソがあるでしょう。自分が分からないといってもこの肉体があるでしょう。
さて、私たちにはどうも目に見えるモノというものに確信や真実、信頼を置いて生きているのかもしれません。しかしながらよく考えてみると、モノは光の反射物でありその本体、真実は自分の心でしか認知、感知できないのです。心で見ているのです。一つのりんごを「林檎」という言葉由来の概念で認識しています。花は、「綺麗な」という形容詞で結ばれます。これらは、固定概念的な社会の取り決めのように使われております。
綺麗とか醜いとかの分別は、こうして既成概念と直結して普段判断されているでしょう。しかし、仏教でいう無分別智とは、善悪以前の根本的な世界を認識しなさいと説きます。
円山応挙の幽霊画など例に挙げると、恐さと美しさが同居しています。仏像でも特に鎌倉時代のリアルな険しい表情に恐さと威厳や美しさが同居しています。共に現実世界には無いモノですが、心に訴えるものがあります。生死観、無常観は侘び寂びも含め日本特徴的な美意識です。死は絶対的でないとでもいうような。
無を有にすることは、美術特有の事ではありませんが、私たち日常でも所作の表現(行動)もそれに類する事であります。心を形やモノ化する事。
見えないという事は、興味をそそられ、最後は「死」を想起します。死は確かに死なない限り実感を伴わないものですから人間にとって最大の畏れでしょう。
今回のコロナもそうですが、見えないものとの戦いは情報頼りです。何を信じて良いのかですら分かりません。毎日出てくるデータすら本当なのか、または、恐がっているコロナさえも疑わしく思う方もいるでしょう。行政、医者、研究者も色々と話してそれをメディアが膨らましています。元々、私たちはその好奇心から、良くも悪くも都合のいい情報を都合のいい解釈で認知してしまいます。それで、社会にモンスターが現れます。そして国行政が動きます。考えれば非科学的ですが、先の例にとっても、この愚かさ、無知は自ら死の恐怖へとつなげているかもしれません。不思議です。
往生際と申しますが、常に往生の決意を持って生活に挑むものは何も心配ないでしょう。真実は目に見えず心に保つものですから。
「生けらば念仏の功つもり、死なば浄土に参りなむ、とてもかくてもこの身には、思い煩う事はなし」法然。コロナがイコール死に直結しなくとも、不安の根源は死でしょうから、この覚悟は、大いに肝に命ずるところでしょう。安心は、そこから生まれるのでしょう。コロナを恐がるのもよしとして、穏やかに冷静に正しく対処すべきでしょう。コロナよりも情報操作でどうにかなってしまう人間の無明さが怖いような気がしております。

2020年7月27日