浄土宗 伝授山 長応院


住職の豆コラム

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第119回「世は思い通りにはならない。だから安心せよ」

「世は思い通りにはならない。だから安心せよ」法然の浄土宗の極意はそういうものです。だから「一心専念弥陀名号/南無阿弥陀仏」なのです。愚かな自我を他力に預けて無心に幸せを受け取る、というものです。図りし得ないアルゴリズムの中に立っています。

現代、見回すと色々な情報が溢れてそれだけでも洗脳されて嫌な世の中だ、と感じることでしょうが、いつの時代でも同様で、事件事故などネガティブな情報は多いけれど、明るいニュースは少ないものです。ましてやこの情報社会に過多に飛び込んでくるから民衆は疲弊してしまうでしょう。正しいニュースなんてあり得ませんから。つまり、飲み込むは自身の感覚です。どうも私達には、良い話よりも悪い話の方が話題性あって好むようです。幸せの数を数えるのには長けていないようです。愚痴こぼしもここから来るのでしょうか、しょっちゅう文句を言う人も見受けられます。欲が満たされない人でしょうか、無欲に近づけたらどれだけ楽になりましょうか。と言って無欲にはなり切ることは困難でしょう。それだけ自分は少なくても自我執着心がありますし、全知万能ではありませんし、コントロールなぞききません。

我々が目指すところは「極楽浄土」です。つまりは「極めて楽な状態、世界」なのです。現世から見ると「極めて自由で幸せな世界」とも言えるでしょう。それが、「死」を示すのかという問題は、別です。現世もあの世も楽であり、生死苦を超えて行く話であり、地続きであるのでしょう。

この今の苦しみ(生老病死苦)を知り、自己の愚かさを覚え、執着を捨て、欲得を抑えることを目指し往生を願うことを目標とします。しかしながらこれらも得難い衆生として弥陀に救われる身なのです。自力で学問を猛勉強したり荒修行したりして悟るスタイルではなく、弥陀の他力で救われる簡単なスタイルなのです。辛くてなむあみだぶつ、嬉しくてなむあみだぶつ、なのです。 「お彼岸」は「到彼岸」であり、我々にとっては「念仏行/願往生」の修養の期間なのです。どうぞお墓参りにて諸先輩に伺っていただけたら良いかと存じます。

「生けらば念仏の功積もり、死なば浄土に参りなむ、とてもかくてもこの身には、思いわずらうことぞ無き」 法然上人

(普段からお念仏を称え阿弥陀様の慈悲の救いに身と心をゆだねていれば極楽往生間違いなしなのですから、それ以外に何の心配もありません)

2022年9月2日