浄土宗 伝授山 長応院


住職の豆コラム

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第92回 唯一の有/浄土

前回の「有」の話ではありませんが、仏教の体系からして浄土教の弥陀信仰の物語に心寄せることは、決して単独で成り立っている思いつき信仰では無いことがお分かりになったと思います。仏教理論の上に必然としてあらわれた質深いものだということでしょう。この辺がいわゆる一神教との差です。
仏教とてはじめから宗教や信仰というものでも無く、形而上の哲学でもなかったわけです。「真理と自由」へ向かったお釈迦様の体感です。
しかしその体感が「悟り」と言われるものですが、誰がその体感を悟ったと証明したのでしょうか。これには「梵天勧請」という話がありまして、それを勧めた誰かがいたことになりますが、そこは霊的直感ということでしか無いかもしれません。
霊的という言葉を使うと「怪しい」などと思う方もいるでしょうが、心身からの超越的霊性というものは並大抵ではありません。後からその内容は「因縁生起」(縁起論)と言われるものになりますが、お釈迦様は誰にも分かるまいと、しばらく余韻を楽しんでいたようです。梵天勧請後、それではいかんと少しずつお話をしていくのですが、言葉ですら無常だと分かっているお釈迦様は、方便や体で示し、時には無記を通しました。それらが弟子達に伝わりアカデミックなサンガに共有されて体系化されたのです。
浄土宗の教えのもととなる経典はそうして出来上がり、特にその後半の「教え伝える」(布教)が仏教の慈悲の側面に集約されたものでありましょう。そう考えると、お釈迦様の他者への思いにある念がこの浄土教に注がれていると感じます。
現代人が無宗教と頑として拒否するのも世の習いでしょうが、こうした物語に心をほぐして寄せてみるのもよろしいかと思います。唯一の有、浄土の山へ。


2018年12月4日