浄土宗 伝授山 長応院


住職の豆コラムアーカイブ一覧へ戻る

第38回 うつろい

最近日頃の生活のうつろいの早さに戸惑いを覚えます。先の昭和時代から考えても戦争の苦難を乗り越え復興と共に経済成長を迎え物は豊かに情報も早く事は便利に動くようになりました。飛行機で人は国境を越えて移動しその文化の往来も身近になりました。インターネットの普及は瞬時に地球の裏側までに伝達し人類は一頃の海外の憧れや妄想を変えました。一国にとらわれず地球人としての価値観に変換しました。有史以来の一滴の時です。
さて、何が変わり何が変わってないのでしょうか。人間の営みです。背後にある欲望と執着です。これは古来から変わっていないでしょう。それに気づいているのかどうか度重なる争いが表しているでしょう。どれだけこの歴史を繰り返すのでしょうか。一方、利便性のかたわらエネルギー消費は著しく化石燃料を使い果たしては原発に頼り生き延びようとする姿は誠に愚かさを露呈してます。また、地方の独自性、固有文化は世の物流の早さから統一化され消えつつあります。どこにでもコンビニが存在し、島に橋が出来れば物流とともに文化が拡散してゆきます。TPP含めグローバル化は地球人の生き延びようとする手段でしょうか、合理性でしょうか。経済向上性でしょうか。
考えます。何を求め、何処へ行こうとするのか。政治や社会のせいにするも個々の人としての愚かさをしっかりと見つめながら懺悔と祈りと希望を持って暮らすことが慎ましくも必要なことと感じます。つまりは、宗教という人類の宝を再考することかもしれません。特に仏教は縁起の論理が客観的でクールな側面を持ち、ことに日本仏教は神道と合わさりながら自然観と無常観を調和させ浄土教を根付かせました。この念佛信仰はこうした世のならいにためらうことなく生死の肝を据えさせて大安心のもと愚に還るしたたかさを持っています。変わらぬ智慧の一つだと思います。生活、社会はそこを起点に広がるべきでしょう。

2015年4月10日