浄土宗 伝授山 長応院


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第11回  宇宙の始まりと現存の営み

137億年前にビッグバンによって宇宙は創られたと言う。それ以前は何だったのだろう話は別にして、人間の存在は誠に小さい。地球の存在ですらちっぽけなものだ。地球の誕生が46億年前、生命の誕生が38億年前、人類の誕生は700万年前程。とは言え、私達は人間と言う動物が仮面の様にかぶり、生物の命を尊厳に我利我欲に走る我々は何だというのか。宇宙の始まりと私の今とどう結び様があるのか。宇宙の終焉迄話を付き合おうとするのか。そんな時系列に今をはめ込んでみたところで何の価値があるのだろうか。
宇宙理論は今というつまり現存在論に関わりがある。今は今でしかない、とそれを感受している我身の事だ。一瞬であろうと話を10年又は人間の一生分であろうと、宇宙の歴史からすれば微々たるものであり、当然、その中には、物質的変化として今回の震災等あるのだろうから宇宙の変化からすれば大した物ではないくらいの事象かも知れない。
しかし、人間は、そう簡単ではない。今という時で生きているからであり、都合悪い物はすべて苦として排除し戦いとなる、そういう生き物であるからだ。宇宙がどう生物を価値付けているか分からないが、宇宙の秩序は我々生き物の体の中に一寸にあるのなら、その生命の中に、宇宙の同義体があるのだろうし、それを考えるなら、小宇宙が我々の体の中に存在しているのかも知れない。そうやって思うと、宇宙の象徴として我がある。そういう答えがあるのなら、宇宙を代表として時を我が物のように支配しているのである。個の中に宇宙は存在している事になるのであろうか。
釈尊は言う。全ての物は生れ死す、という繰り返しを続けている今に在るだけだと。我々の感情は云々として、物的に移り変わっているだけなのだろうか。宇宙スケールで見てもこの縁起論は生きている。けれども、我々にはどこか固定観念があって、留まりたいという欲がそれを引き戻そうとする。けれども、事実はいたってクールである。「いま、ここ」を知る事がいかに大切か。
さあ、我々、生き物はどうであればいいのか。一つだけ、我々は、大きな授かり物がある。それは、「こころ」というものだ。全ては、心で見ている、ないしは心で存在しているとも。私には、これが唯一の人間の頼りかもしれないと思う。宇宙の秩序に頂いた恵みとして。それだけに、私は、大いにそれを磨きたいと思っている。何故なら、それが唯一の宇宙の真理に近づける方法だと思うからだ。我の心と存在は無二の宝物である。それをいかに知る事、ここに命題はあるようだ。

2011年5月7日