浄土宗 伝授山 長応院


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第46回 時の棲み家

哲学、思想、宗教、美術、、、それぞれの領域の中で循環しながらも、今や根源的な心の在り処を求める時代がやってきた。というより求められている。学術ではなく、我々身辺にある話だ。アカデミックな系譜に頼らずとも。
「思うようにならない」と言う苦諦の摂理に対して「思うようにしたい」と言う我々人類の行動の間に起こるもがきが不安をいつも漂わせている。だから人は願い、救いを求める。そして安住の地を探す。
時は心の事象である。刹那な個人は、妄想の執着によって結局確信を失い、おぼろげな自身は深淵をさまようことになる。
遠きに超越を感じ、真の幸せや自由を求めると言うことも確かにそうであろうし、愚鈍の身、不浄に懺悔するもそうであろうし、苦しみに耐えながら人生を過ごすも悪い話ではないかもしれない。しかし、一方、気づきによって身の回りに宝石が一杯あると考えるのも反則ではない。我々が雑踏の中に暮らそうとも持ちこたえるわずかな気づきが時を変える。
気づきは、身体的な霊性であるから薫習性のある感性かもしれない。それを訓練された悟りや智慧と称するかもしれないが、それはそれとして、目の前に現れる浄土を感じたいと思うのである。それは端的な現世利益の発想ではなく、証空の白木念仏のように称名=極楽が現れるという解釈とも言えようか。
人類には知恵がある。知恵を智慧たらしめる気づきを磨きたいと思うし、それよって静穏な自覚を覚えたいが故に。時はそれを待っている。
それは、我の執着から離れ一切の事象の中に溶け込むかのようで、個は無常の中にあって等価値だとすれば、すがるは自分ではなく遥かな気づきによって得られる世界なのかもしれない。


2015年12月1日