浄土宗 伝授山 長応院


住職の豆コラムアーカイブ一覧へ戻る

第47回 丹田に心を座らせて

ざわめきの多い世の中に正気を持って生きることは本当に難しいことだと思います。複雑な人間関係や情報過多。静寂に心を落ち着ける時間さえ持つことも困難かもしれません。
何回か「自と他」に触れて書いてきましたが、目の前の事物事象があってこそ自分がある、又、自分が在るからこそ外の事象がある、この関係は相反しながらも相和し、仏教の言うところ共に無常として確固たるものは何も無い、ということになるのでしょう。執着にのみに妄想の自我を覚え翻弄されているということになりましょうか。
いやあ、それでも中々そういう気づきにはなれないですよと多くの方はおっしゃるでしょう。そこに浄土の教えが光るのです。そういう人こそ救われ、そういう人の為に阿弥陀様が誓いを建てて仏となったわけです。だから、その救いを信じて日頃はなすがまま自然に生きれば良いよ、と言って下さる訳です。
ただし知恵として思うのですが、無常という理を丹田に座らせるという気づきを持つことがスムーズにスマートにその流れを良くするからです。雑多な現代社会には必要な瞑想法かもしれません。ちょっとした時間を持つだけで良いのです。静寂に心を丹田に落とす感じで、、。お試しあれ。
法然上人はそれもいらないよと言うかもしれません。愚を愚と感じるか、愚は愚なりに自然と生きるかですね。


2016年2月17日