浄土宗 伝授山 長応院


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第39回 宿命として生きているということ

私は、浄土宗の寺、長応院に生まれ育ちました。物心つかない時には既に得度を授かっています。青春期、美術畑に傾倒しましたが、寺を継ぐべき等の理由で伝宗伝戒を受け浄土宗僧侶となりました。そして海外布教の経験から人種、宗教、ルーツ、アイデンティティらの葛藤から仏教も美術も同じ道として今日に至っています。私の人生はこの数行で書き終わってしまいます。これ迄仏教が、浄土の教えが当たり前と思って来ました。疑問も感じませんでしたし、深く広く仏教、浄土教を学び精進しながら皆さんへ教えの仲介をさせていただいているつもりです。最近、年のせいか人世とは何かと考えた時、僧侶とて所詮この世の人間ですから、親や育った環境でだいたい形作られるものです。商いをする家庭に生まれればそれなりに育つものです。確かに僧侶はどこかで精神的に俗世を離れていますが、営みは同じです。職業かと聞かれてはちょっと違うとは思いますが皆様と一緒なこの世の営みのうちです。異教の家庭にもし育ったならそのようにもなっていたかもしれません。物心の遺伝子や育つ環境やらで自己が形成されるならば、意思として選ばれた人世ではないでしょう。豆腐屋の家に育てば豆腐屋を継いだかもしれません。ここに宿命という言葉があります。我らは宿命を粛々と生きている、このことがよぎります。そうした集合体として国や社会があるとなると、表層上の自己で結ばれることではなく、宿命の出会いとして結ばれているわけです。妻も子も友人もそうですし目の前のパソコンもそうです。この事を立ち返って仏教に照らし合わせると意思ではコントロールできない現象として世を語り自己執着を否定していく縁起無常は事すると宿命論にも非常に近しいニュアンスを持っています。チベット仏教では占星術を用いて世継ぎを決めます。当たった世継ぎは宿命として生きて行く、私たちも同じくして縁を持ってして生を受け人の身を受け宿命として生きて行く他に私にはそれ以上の偉大さを感じえません。人の身はかりそめにて在る、という事です。最も大切なのは自己個人の偉大さではなく宇宙の理に従って生きる他に筋はありません。言えばその器にある心の大きさなのかもしれません。自己が入り込み選んで決定する事がいかに無意味な事か感じることもあります。サイコロを転がして決める人世、おかしい話ではないと思いますし、そうありたいと思います。捨てに捨ててと法然や一遍が言うように、我この世にたまたま縁ありて正に宿命を感じる今日この頃です。


2015年5月18日