浄土宗 伝授山 長応院


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第10回  震災

3.11以後僧ともあろうが不安と共に動揺していました。これは一体なんなんだろうと。一瞬に無くなる命。又、原発災害に見る物質に慢心して来た20世紀型近代国家の終焉。何しろ、人類が物質経済に欲をもたらしたが故に跳ね返って来た災害であり警告でありました。過度の慢心に本質を忘れた事です。
一ヶ月後、法然の「自然法爾」の言葉通り「なすがまま、世の習い」という安楽な境地に至りました。それは、けっして諦めではなく、世の摂理に、つまり他になりかわれない自己の無常に準じて安楽であれ、という事でしょうか。つまり、一人で悟る事が良いのでなく、皆が一緒に悟らなければ、世の輪廻は変わらないという事です。法然の山から下界に下りた時の心境と似ているようです。慈悲、救済の考え方です。
今回の震災の教訓を個々がしっかり精査して共に安楽な心を求道したいものです。しっかりした精神、信仰、宗とする教えの必要性をより感じた次第でした。洗心の思いで物質を語り直す時代となった事です。そう言う意味では、元に戻すのではなく、次なるステージに向かう事を考えなければならないのでしょう。
ただ、今、この身、自己が大きな自然の歴史と遭遇しているという事が縁起からすれば必然なのでしょうが、千年に一度の周期の中に何故、この我が向き合っているのかという境遇の不思議です。無常が故に今一点を、と言う仏教観の突き放たれたクールさと共に弥陀仏の慈悲の温もりの狭間に漂っています。何故、過去でもなく未来でもないのでしょう。今にでしか存在しない自己が寂しいのであります。当たり前ではありますが、、。
こんな時、被災地から伝えられる人間模様の映像を見たりして涙します。人間愛。ヒューマニズムに今一度、根本的な見直しが求められそうです。情報だけが狭間に立つ乾いた人の間にあえてそう問い正したいと思います。物と心の相和です。片寄らない中道の心掛けが欲しいものです。その身になってみなければ分からない、とはそう言うものですが智慧はそれを越える事です。
さて、しっかりと心の精進に向けて頑張りたいものです。安心なさい、どうあれ法の摂理は変わりません。

2011年4月22日