浄土宗 伝授山 長応院


住職の豆コラムアーカイブ一覧へ戻る

第41回 死とはどれほどのものか

死は怖い、嫌な事、不安、消えたく無い、全ての終わり、この世の果て等様々に口にします。一方、病で辛いから早く死にたい、和尚さん早く連れてって、等とも言われます。死を意思や我で語るのは難しいでしょう。死の意味の勝手な定着感を感じます。
人は死にます。形を選ばず、生命体は死を免れる事はできません。これはこの世の道理です。死は極限なのでしょうか。次の世界が確実にあると納得できないのは物体の執着に他なりません。物体とはなんでしょうか。仏教では全ては心から成ると言います。つまり心の認識で外界の物を物として感じ取っています。言い換えると外界は自分の心が作っているのです。五感を通じて外界があると信じています。自分の存在すら心が作っているのです。では本当の自分はどこにあるのでしょう。どこにもありません。つまり物の執着が全て支配されているという考え方が仏教です。つまり、その執着を除けば無という事になります。だから所詮無であるならば無くなっても大した事ではありません。なのに、、、ですよね。
他者の心に宿る生き方:結局のところ自分は他者(他人や目の前の物)によって存在を確認しています。つまり他者がいることで自分が在るということです。逆を言えば他者がいなかったら自分もいません。ということは、他者への思いが自分への思いでもあるわけです。自分を高めることは他者への眼差しを高めなくてはいけません。つまり、常に他者への思いやりが自分を高めることになるのです。他者が滅すれば自者も滅します。だが故に死が怖いのでしょう。縁起無常の理からすればただそれだけのことです。特別人間の死が怖いのでもなく所詮無であるのにもかかわらず無であることが怖い、物がなくなるのが怖い、自分が無くなるのが怖いという感情的な部分(縁起という連鎖から外れそうな不安)として怖いのでしょう。すれば、ひたすら物の執着を離れ他者の心に寄り添った生き方が真っ当なスタイルでしょう。
それを思えば、その崇高な位置に他者として阿弥陀仏がいらっしゃるのであれば常に思い向き合うことが自を平穏無事に向かわせることでしょう。だが故に念仏の生活があるのだと思います。自は自だけで存在せず、他は他だけで存在せず、自他共にあって成立すると考えるのが仏教の考え方であります。
日常的に考えれば執着の強い我の部分を少しでも他者に振り向ける心がけが大切かもしれませんし、事物事象への思いやりが死の恐怖を救うのかもしれません。



2015年7月1日