浄土宗 伝授山 長応院


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第22回  想定内の幸せ

人生80〜90歳等と言われるがうまくいけば御の字なのでしょうか。よく生命保険会社の言い分が面白い。四苦八苦を妙に心得て、生まれたらこう、死んだらこう、病気になったらこうとちゃんと出来ている。子供の成長に合わせても大学に入る時はお父さんは何歳ですからこうしておけば良いとか、、。ああ、万事うまくいくんですか、と聞きたくなる。すると、頑張って健康でいて下さい、と言われる。つまり、想定される人生設計に基づいている訳だが、果たしてどうか。近代文明は科学的想定を担保に進歩したかも知れない。原子力という賜物もそうかも知れない。天気予報も地震予知も。これで、日常行動が予想もたてられるし、経済も動く。しかし今回の原発事故は想定外と言われた。先の大地震も想定外だと言われた。大阪での通り魔事件も想定外。逆を言えば想定外だらけである。人間は何をもって想定しそこへ向けて生きるのか。果たしてそう言う生き方が正しいのか。偶然と言う言葉もそれに近しい。偶然出くわした事故、とか。仏教では、そのどちらも無い。単に因縁生起の論理でしかない。良し悪しの問題ではないのである。運が悪かったからこうなった、とは説明が付かないのである。淡々と縁起によって移り変わっている事のみこそが真実を語る根拠となる。はて仏教は冷たい。が、道理に暗く感情に任せるのは餓鬼の如し、とは現実の我々だ。故に根底はクールであるだけ逆に温情、慈悲は絶大だ。特に浄土教は弥陀の慈悲を中心に語るからである。悟るに悟りきれない我々の現実がある。そこに救いを差し伸べてくれるのは浄土の教えである。であるならば、唯一の想定内は極楽往生するという事だけかも知れない。どうなるか分からない、という不安定感に生きるのは辛い、最後の大仕事は極楽往生とはっきりさせておけば安心なはずである。
「生けらば念仏の功積もり 死なば浄土に参りなむ とてもかくてもこの身には 思い煩うことぞなし」法然


2012年6月18日