浄土宗 伝授山 長応院


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第19回  死は怖くない?

考えてみると、もし死んだら何もかも目の前の物は無くなって喜びを実感しなくなるだろう、と、唯物信者は思うだろう。だが、喜びを得るとは、何処から来るのだろうか。我々は物にまみれて生活をしているが、よくよく考えてみると、感知しているのは自身の感覚器官である。それを統括している言わば心で実体を感知しているのである。死はその感覚が無くなるのだから実体もなくなるし、そもそも実体は感覚でしか存在しないのであれば、実体こそ無いのである。おぼろげに自分は実体らしき最たるものだが、その事からすると、自分は元々無いとも言えるのである。と言う事は、生とか死とか、たわいのない事かも知れない。すれば、精神で生きる、心で生きる、感覚で生きる、と言う事に終始していれば、死は怖くないはずである。行者はその域だろう。願往生と願う事に一点の光を見つめるだけだ。

さて、そうは言っても、、と言う我々凡夫はどうしたら良いのだろうか。やはり死は怖いのである。物にすがっていたい。家族にすがっていたい。悟に悟りきれない私達は正に他力によって安心を得る事への道に寄り添うしか無いのかも知れない。

今この状態、この時点で諸々の因果で存在している自分を否定は出来ぬ。先にも後にも縁に因って成ることは、もう自分がどうのこうのと意識的に方向を定めにくいし、それも又、因果を作っているのだから意識は身投げ状態だ。と言う事は、もう観念してうつろいに、自然(じねん)に任せるしかないのかも知れない。つまりは、宿命として縁を受け因果を受容するが生き方の得策かもしれない。

2012年1月16日