浄土宗 伝授山 長応院


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第21回  洗脳騒動

芸能欄に賑わせたある人の洗脳騒動。思う事一つ。洗脳、マインドコントロール等、普通の状態ではない方向に誰かがしむける事。オウム事件も思い起こされる。人は、他者に意思をコントロールされる事を妙に嫌う、というか、自は揺るぎない、若しくは、他によって意思をコントロールされる事は、自我意識のプライドが許さないが如くの様に見える。一方、どれだけその自我意識が確立しているかは不明である。つまり、普通の意識に準ずるがよろしいのであって、それ以外は、何となく邪悪らしきと排他的に処理してしまいがちである。ただ、ここで、気をつけなければいけないのは、「普通」の中に、どれだけ我らは、言わば、洗脳されているかである。この巨大な物質的自由資本主義の中に、又は、不鮮明な民主主義、又は、国家形態から一個人の命に至る迄、どんな舟に我々は騙されて乗っかってんだろうと、、。しかし、これを覆しては、いけないと言うある種のタブーを何となく感じるが。時に、宗教もそういう標的にされる。じゃあ問う。我々の舟の先頭は誰だ、寄りどころは何か。私達は、真にこれを持たねばならない。こうして一つ一つ皮を剥ぎ落としていくと、私達は丸裸で凍えて死ぬだろう。そうでない為に、寄り所を持ち、温もりを得ようとしている。その環境に則しながらも。その寄り所が生きる根拠であろう。そこには、願い、祈りしか無い。これこそが、私達の真の源かも知れない。これは、洗脳であろうか、無宗教を誇らしげに言う若者よ、目を覚ませ。国家戦略の中にいつのまにか原発がこれだけ増えて、今、不安の底におとしめられている私達は、まさに、その洗脳に気付かねばならない。主権は私達の手元にあるはずだ。正に時代の転換期である。

2012年3月19日