浄土宗 伝授山 長応院


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第15回  生命維持生活に従順であれ?

人は本能として「生きる」を宿命としている。繁殖し死んで行く。その産物として知恵を増幅させ文明文化をもたらす。科学、思想、経済など。昨日迄サルだった我々は原子力を扱うのである。喧嘩もすれば権力も持ちたがる。何故人間は存在するか、考えても無意味かも知れない。考えたとしても抵抗できない。宇宙の始まりから考えたとしても、生物の謎の内に納まり、本能は何か方向性をもたらしているのか、考えても繁殖と生死の繰り返ししか過ぎず、一点であるワタシは、「目の前のコップ」に在るだけであると言うのが、仏教的であろうか。いささか即物的で色気の無いように見えるが(創造の神に話をめぐらす方が楽しそうだが)、現が実る現実にどうも大きな問題があるようだし、そこに身を任せた方が潔い。というよりか、苦楽の現実から移しようがない。ならば、宿命としてしっかり受けようじゃないか、でいて、自然法爾(理の飽和状態としての現実に身を任す)でいいじゃないか。従って「生きるの根拠」は目の前のコップにヒントはありそうだ。

2011年9月27日