浄土宗 伝授山 長応院


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第8回  拝む事

仏様を拝むといって、仏壇に手を合わせ、お墓に手を合わせ、又は、寺の本尊様に手を合わせる。仏様は一体何処にいるのだろう。位牌に仏がいるのか、墓石にいるのか、仏像にいるのか。
「霊」と呼ばれる仏様は、雲の様にいつも形を持たず漂いその人のそばにいる、と言われる。手を合わせる人のところにいる事であり、つまり、偶像崇拝的な考えを持たない仏教の「全ては心に依る」解釈である。じゃあ、何で仏壇やお墓に手を合わせるのか。人間はそもそもそう簡単に対象物無しに拝もうとしない。物質的な何か(実体のあるものへ)向けないと心して手を合わせる事が容易ではないからかも知れない。
又、朝から身支度をして、寺や墓に参る事の行為とプロセスが一つの「行」を成している事も大切であろう。念仏もしかりである。法然上人は、「口称念仏」を説いた。ただ想っての念仏ではない、声に出して自分の声を自分で聞くという「行」の念仏に意味がある事を。「祈り」と「行」が一体となって拝む事の意味合いが成立するのである。ただ、心で念ずれば良いとなれば、人間は横着になりがち。一歩前に行動してみようではないか。そして、ご先祖のみならずその向こうにある真の世界に少しでも向けて頂きたいと思うのである。それこそが仏教の極みであり、ご先祖への供養であり、自分を救うの道である事を。

2011年2月6日