浄土宗 伝授山 長応院


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第44回 仏教は癒しを求めるものではない

神社仏閣をパワースポットと称して巡っては癒しを求める人がいますが、らしきを味わうだけで勝手な思いの中で悦に入るのはいかがでしょうか。特に仏教寺院は悩みと問いの中の泥ついた場でもあって、決してパワーをいただくような又は癒されるような場所ではないように感じます。よく言えば戒香漂う人間の凜とした苦悩の場です。 癒しビジネスが盛んではありますが、どうも人間の勝手な苦しみの模索が、自分で解決納得してしまう易さが案じられてなりません。 ストレスや苦悩は社会やメディアが高じて作った現象かもしれませんし、今に始まったことでもないような気がします。今、一つには、個人という理解と納得の感受の変化が挙げられましょうか。世の個人主義が個人を解決できない不安でしょうか。自由の意の履き違えが助長しています。自由とは智慧の獲得であり、金で買える物質的自由は知恵の自由であります。そこで、満足できないとき人は、苦を考え、個を考え、真の自由を考えます。悶えては癒しに身を傾けます。思うようにはならない、とは釈迦の言葉。始めからある理屈です。でも人間は欲望します。欲しても得られなければ苦に変わります。それですぐさま癒しとは何の解決にもなっていないような気がします。 道理に暗いとは凡夫の我々ですが、一隅の光に自然(じねん)に心身をゆだねることが一つに良き方法かもしれません。


2015年10月12日