浄土宗 伝授山 長応院


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第26回  不安心から願いへ

苦と不安はあまり感じたくないものです。誰しもが穏やかに安穏とした時を過ごしたいものです。しかしながら、お釈迦様は申します、「一切皆苦、だから故に」と。不安は「不安心」です。安心が無いという事ですが、苦が故に安心が持てないこの状況です。じゃあ、どうしたら良いのかと人々は奔走します。安心な安定な幸せが満たされないと不安を生ずるのであります。苦を前提とするならば、安心、幸せへのベクトル自体が私達にとっての生活の向きなのでありましょうし、言い換えれば、願い、という事になりましょう。単に欲に満たされない不満も同じ事でしょうし、より高い次元であろうと同じ事かもしれません。「願う事」。これが、私達にとっての本来の姿かもしれません。これには、「祈り」とか「希望」と言った言葉がついてきます。宗教はこういう根源的な「願い」において生を営むのでしょう。極めつけは、「願往生」でしょう。人間界の後、不安の無い、極めて、安泰なところに生まれ変わりたい、そう願いそのひとすじな生き方が、逆に、今の生に良い機を運ぶと思うのです。ポジティブな向きと言う在り方において、、。どうも私達は、安心や幸せの数を数えるのが不得意で、むしろ、嫌な事、不安や不幸の数を数えるのが得意かもしれません。欲を得られないからです。欲への補充ばかりが我々の生なのでしょうか。欲の消費に満足を得ようとするのでしょうか。自我の危うしきを覚えれば、我々は、生を受けた時から「願い」という唯一の崇高なベクトルを持つのでしょうし、生きる力となりうるのでしょう。


2012年12月13日