浄土宗 伝授山 長応院


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第6回 見える事

十数年ぶりに眼鏡を変えた。近眼も少し進んで度数を上げた。違和感を感じて古い眼鏡ととっかえひっかえでいる。慣れればなんて事も無いのだろうが、そこには、長く親しんできた眼鏡の慣れと未来を結ぶ狭間の時の右往左往がある。新しい眼鏡に慣れようと努力して掛けているとどうも目が疲れる。頭も痛くなってくる。古い眼鏡に戻すとあ〜落ち着く。でも、それじゃいけないと新しい眼鏡に挑戦する。こんな繰り返し。 過去と未来のもどかしさの中に今の自分をしばし見失う。見える事、当たり前のようであるが、実際、何処まで私達は見ているのであろうか。視力の問題を超えて、(何処まで見えている事とは別として)いわゆる想像も働いて、リアリティというアバウトな見方で心が判断しているのかもしれない。近視の人がぼやけて見ているとしても普段それほど気にしていない。つまり、〜だろう的な見方を脳がしている訳である。じゃ、100%見えるとしても実体は見えるのか。そこが問題である。我々は、だろう的な見方をいつもしているのかもしれない。脳は、ある種の実体を感知するが、それはそのものではなく、脳の中で処理された異なる実体である。結局、私達は、見ているようで見えていないのであって、主体的な自己的な見方で見ているのである。これから想起すれば、私達は実体をつかむ事は出来ないのかもしれない。じゃ、見た、というものは何なのであろうか。心の引き出しで処理されたイメージに過ぎないのかもしれない。それらの情報をたよりに生きて、解釈しているのかもしれない。つまり、我々は、実体とすれ違いで生活しているのだ。じゃ、我々は何だ、という事になる。自己と言う、個体がどれほど確信めいたものかも知れず、我々は、浮遊し続けるのだ。見える事、五感のひとつである。しかしその向こうに光明が差し込んでいる事は覚えておきたい。実体なんぞ無いと仏僧は言うが、見える見えない事の向こうに大きな問題があるという事である。「まずたしからしさの世界をすてろ」とは写真家、中平卓馬の表題である。
はて「自己と生死と芸術と」結局人間は死の直前に分かる事だろうか。    

2011年1月11日