浄土宗 伝授山 長応院


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第3回  人間、窮地に立った時

人間、窮地に立ったとき他者から「安心しなさい、私が救ってあげるから」と言われればどうだろう。苦しみから解かれたように安らかな気持ちになるだろう。もしくは、これもご縁だ、仕方が無いと事に自然と身を任せるか。いずれにしても、そこには安心を求める人間の究極の姿だ。相手を安心させる事、それが我々僧侶の仕事であり宗教というものだ。そこには難解な理論はない。コンセプチュアルな仕掛け等無い。ただ、その「窮地」の思いはどういう時なのだろうか。ここが問題である。求道者が最後の最後まで求め着いた思いなのか。日頃ころがっている物質的な感情のレベルなのか。この点はどちらも同じなように思える。大安心。この手がかりを持っている人とそうでない人とは大きい違いがあるように思える。
人間、いつも研ぎすませていなければならない。が、どうだろう。出来るか。持続出来るか。だから、人間はそうそう完璧じゃない。ボロが出る。それが人間だ。テンションをキープする事は肉体的にも無理である。時に優しく、休息を必要とする。バイオロジカルにそんな波があるとしても、その休息に安楽を求めなければいけないのである。それが自然界の肉体である。精神だけで生きてはいないのである。そこにバランスと調和と中道がある。つまり片寄らない世界である。それはとらわれ無き世界でもあるであろう。

2010年10月20日