浄土宗 伝授山 長応院


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第1回 言葉と言うもの

「表現」:表層の世界に現す事。表層の世界、不可視なる事を可視化する事。不可視なる世界とは何ぞや。共にある世界、それが現実である。現実とは何ぞや。物質で構築された物、可視化された世界?量子を持つ世界?感覚が受付ける世界、現象?ではどういう縁起で構築、現れているのか。人間を含む自然の行動、行為?それは何がそうさせているのか?内なる欲望?自然の摂理?宇宙の摂理?私は何を思うのか?表現の行手に何があるのか?何を求めるのか?嗚呼、なんて人間は小さいのか!それぞれの感覚に集中していない時、我々は不埒なもんだ。問題意識が無いとものが見えてこない訳だ。勝手なものだ。背後に色々あれど表層の現象は全くもって均一である。取り出す人こそのものかもしれない。だが、取り出し、深める事が表現か?その後は問答である。こうした事によって何を得ようとするのか。人間の真への欲である。ひっくり返せばそこには何も無い。

言霊という表し方あり、ウェトゲンシュタインしかるべき、真言神々しく、さまよう言葉。口から発せられる言葉。文字に変換して言い伝えよう言葉。表層の伝達としてザワザワと押し寄せる。日頃、何ためらい無く付き合う言葉。容易で何とも厄介なものだろう。詩人が生れるが如く、その曖昧を知るや、人はその容易さに軽んじて我身の中に観念を投じる。大きな媒体だ。だから、簡単に言葉を使えない。だが、そうは言ってられない事もある。諸々の表し方は他所として私達は寸断の一部でもの思いで言葉を使う。それで全てが伝わるものでは無いが、感覚の一寸にでも届けばと言葉を発する。それで良いのだ。と言うのが美術作家の共有観念かもしれない。以下そう言う思いで書く事にしよう。言葉の遊びではない。ただ、言葉に実体が無いのだから仕方が無い。

2010年8月17日