浄土宗 伝授山 長応院


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第2回 ここと言う場所

ここに在る、と言う他に私は何処に居ようか。妄想はとんでもない処へ行こうともこの肉体はここにある。よく写真はそこに行かねば撮れないとか、そこに行った証として写真があるとか言うが、それは嘘である。〜のようならしきものへの妄想であり現に私はここに居てらしきのを相手にしているという私がここにある。「ここにしかないもの」であり「決してそこへは行けないもの」である。

自分がどれだけ自分で在らしめるかを表出する事、それだけがプライベートな表現であり、民意や総意と言ったボキャブラリーに沿う事が出来ない事、(アイデンティティはそれらの語彙に含まれない。その為にプライベートを語る事でもない。)又はそれらを越える事が必要な事でもある。表現はそうした表層に向けられたものでなく個のミクロコスモスである。存在価値があるかどうかは、「ここに在る事」と言う事につきる。「ここにある事」「この場所というもの」「ここと言う場所」である。過去未来無き今のここである。

2010年9月27日