浄土宗 伝授山 長応院


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第45回 勝手が往来する世

よく、自分勝手だ、と言われたり言ってみたりすることはありませんか。他人に迷惑をかけないと思いつつ勝手な振る舞いをしていませんか。勝手が通ることがどこかで気持ちが良かったり、申し訳なく思ったり。勝手や我がままをどのように解釈したら良いのでしょうか。
まずもって我とは現に存在する命とその行動です。我の由来は何処にあるのでしょうか。心身は両親の物心の遺伝子ですし又それ以前からとうとうと流れる生命体の一滴です。そこに我勝手はありません。宿命として在るのです。それが、徐々に欲や執着によって我をつくったかの妄想にかられます。基本には生命体として子孫を残すことに費やされ死んでいきます。ただ人間はそれだけではならず、一つの英知を持って「こころ」という作用と見識で世界を見出そうとします。その心の浄化作用が問題なのでしょう。
仏教では無我の境地へ至る事、つまり悟りを説きます。先に書いたように我は妄想にある、ということなのです。と言いましてもしっくりきませんね。心を抜いたら単なる物体です。心があって他者を思うからこそ社会が出来、コミュニケーションがとれ、和合が生まれるのですが、一方で、好き嫌いや意見の違いで対立したりこうじては関わることを嫌がったりするわけです。そこには、個に対する認識の高低が出てきますし、社会認識、宗教的概念も関わってきます。仏教はあくまで心の作用で存在認識を説きます。ですから、西洋の現象学からすると随分と昔から真髄を突いていたなと感じます。ともあれ心を中心と考えその浄化を精進する仏教ですから極める上で無我の境地を目指したのでしょう。ただし、一人の僧が極めるのはいいのですが、我々凡人はどうしたらいいのか、悟に悟りきれない者はどうしたらいいのかという問いに浄土教が生まれました。救済と願求往生の教えです。勝手と思えど勝手になってしまういたらぬさ、凡夫こそ生まれるところが極楽浄土ということになります。我の欲や執着にまみれてもどこかでその愚鈍の身を感じ、願うことができたらすべての者は救われるという論理です。どうでしょうか、勝手が往来する世にあって行くべきところがあると思いませんか。ぴったりなところ、極楽浄土です。
勝手とは自分中心的なことです。「自灯明」の意とは違います。お経にある通り、自は他によって成り(存在)、他は自によって成るということですから、勝手はその論理から外れますね。他者を思う事が自分を形成する大きな要因なのです。ですからこの理解が崩れてしまうとどうなるか、今の世を垣間見ると想像できるでしょう。まさしくも和合「同入和合海」であり、一人で存在しないのですから。


2015年11月10日