浄土宗 伝授山 長応院


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第34回  観念の念仏にもあらず

法然上人の末期の文「一枚起請文」の中の言葉であります。各宗祖、釈尊の説いた因縁生起(縁起論)を核にその結論に迫った鎌倉時代、混乱の時期に生死流転の中での自己存在と認識を紐解いた法然は特に万民のこころの救済を説きました。学問としての仏教から活きた仏教へと。それは願往生の念仏という易行道(誰でもが容易く出来る修行行為)でした。論じる仏教からの脱却でした。観念的に難解に世界を広げる事よりも無心に手軽な形で行ずる(心身に薫習させる)事が最も重要だと言う事です。よく対比される禅もこの点では同じでしょう。
日頃私達も「〜とは何だ」と頭で巡らしても結果がでないと問題の解決にはなりません。確かに思考するプロセスは重要ですが形としてどうなるかはそれはそれで問題です。物と心は相和しています。
ある写真家が言いました。「写真とは何かを論じても写真作品そのものには写らない。どう写ったが問題の始まりだ。その繰り返しの中に見えて来るものこそが自分の悟りの境地なのかもしれないと。だから私は考えて撮る事をやめた。」と。写真と言えば一般的に思い止める行為として用いられるものでしょうが、何かを写し止めたいという気持ちとその結果(写真)は個人の中では反復し写真そのものがどう写っていようと納得感という気持ちで成立していますが、第三者が説明無しにその写真を見たらどうでしょう。写真=物質とはそう言うものです。
写真行為であれ念仏であれ五感によるところの行動自身がロジックなものでなく薫習として身やこころを豊かにするのでしょう。観念に徹するならともかく凡人はそれほど諸条件を精査して答えを出す程良く出来てはいないかもしれません。法然はそのところを見通してたのでしょうか。自問自答です。


2014年8月27日