浄土宗 伝授山 長応院


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第36回 自由の理

近代文化は自由を獲得したか。自由の獲得を大義に争い古きを破壊して今に至る。何が変わり、何を失い、何を得たのか。
封建的だった日本は西洋の自由主義を憧れ、生活、政治、人権、科学、物質的価値観、表現などあらゆるものが自由もとに変わっていった。
特に個人の価値が見出され言動や行動の自由が大幅に拡大した。個人、民主、物質、資本、自由主義が混じり合い、今になっては物が溢れ、流通も早くなり、伴う仕事も拡大し、行動の幅が広がり選択の余地があり選ぶ自由度が変わった。物質的生活は豊かになり個人の意見の表し方も自由になり芸術家も自由を謳歌する。
本来、人は思うようにしたい、という欲と、思うようにはならないという理の均衡で生きてきたはずである。そこには戒律があり、ルールがあり、習慣風土があった。
現在の事象の方向性は変わっているようで本質は変わっていないかもしれない。自由とは欲するものであり、実際に獲得し得ないものであるはずだからだ。
しかるべき芸術家はその根底にあって表現と向き合うべきであり、個と自由は幻夢として向き合うがあり方だろう。
自由の履き違えに見る世間の有り様に勝手が通りわがままが通る時代を感じ、そこにはそうした個の定義が成立するかのように奔放だ。
逆行するかのように仏僧はなぜ苦しくも修行し懺悔して行をするのか。仏陀は何を得たのか。苦しみや愚かさの上に万物万象の理を覚え悟りという執着のない本当の自由を得たのではなかったか。
我々が知恵を持ってして智慧を得ることが真っ当ではないであろうか。そろそろそういう時代になってもいいかとも思うし、現状を静観すればそういう知恵も湧いてきてもおかしくないと思うのだが。
92歳の婆さん曰く、今はいい時代よ、なんでも自由で、昔は生き延びる事に精一杯だったと言う。若者はより自由を求める。考えるに生あらば自由を求め、生あらば死を迎える、と言うことは自由と死はどこかでニアイコールであり、涅槃と死滅の裏腹にあるのかもしれない。心の自由と物の自由。ここに生きる根拠を見出すならば少しは救われるかもしれない、が。
このことが宗教と芸術の総和するある一点かもしれないと思う一方、恒久的な命題なのかもしれない、と思う我ここに在りなのだろう。


2015年1月9日