浄土宗 伝授山 長応院


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第12回  自分とは己の分

「分相応」と言う事ありますね。自分の今の境遇、環境、状態などこれらの事象は己があって宿命として在る状況です。安定した飽和状態です。つまり良い悪い無くして在るべき姿なのであります。それが、「分」つまり持ち分なのです。隣の芝は青い、と無い物ねだりしようとも自分の持ち分を超える事は出来ません。超えた欲をかき立てる事は、不安定を呼ぶだけです。自らの分、それが自分であり、安定と宿命と必然なのかもしれません。
ただ、その「分」というのが目に見えないから具体的に分かりづらいのです。心の目で客観視出来ないと中々分からないのです。けれども、その智慧の状態も含めて「分」なのでしょう。ある意味では、時に寂然と自分という他とは違う何かを感じる事があるでしょう。その相和に満ちた状態が自分の分の姿かもしれません。
震災にあたっては義援金活動、ボランティア活動等、大変有り難い事とは思いますが、ただ、漠然とした風潮に流された行動は少々心もとなく感じます。マスコミや情報の在り方受け方もありますが、風評被害という事象は全くもって漫然とした「分」であり本分を忘れた証でしょう。自身の心のしっかりとした「分」から行動へのベクトルを持ちたいものです。
自分をあらわすとは己の分をあらわす事です。分は磨かれます。これから心が特に問われていく時代を迎え、しっかりと精進して洗心心掛けて自分の分を磨きたいものです。

2011年6月9日