浄土宗 伝授山 長応院


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第42回 一体人は何を見ているのか?

ギョロギョロと眼球を動かし光は網膜に映り認識する。実体の擬態化であるか。それが2人3人となると目の前のコップは2個3個になる訳で、仏教で言うところの実体は無い、というのはよくわかる。つまり、本当の一個体のコップは誰が認めようかと、、。一切皆空と言う事だ。共通概念として名称化されおぼつかない実体として定まる。となると、認識する事は自己の固有の枠で処理されつつも一方で他者との共有の為に認識を必要とされる事でもある。実体無き実体は虚像の中で儚き夢を見る。識下の実体が実体と言うならばそのコップは何なのか。心で見ている、とは何か夢物語の様だ。欲体が焦点を合わせ識下に投ずる、とは言え識下に置かれない像は何なのであろうか。とらわれない眼がとらえるのは何なのか。無欲の光学ははかない。認識されねば物はないのか。無常、掴みきれない時の流れに写真は儚き術であると言えよう。夢の中で捕らえる物質感もさほど変わらない物かも知れない。そうであるならば、物と心に浮遊する人間の儚さが見る事が出来るかも知れない、と。そうなれば、光明は慈悲を表すとは何とも美しい言葉ではないか。


2015年7月9日