浄土宗 伝授山 長応院


住職の豆コラムアーカイブ一覧へ戻る

第16回  平穏無事なある日

誕生日。兎角誕生日というものは祝ってもらうという受動的なものだが、今自分がここに色々なつながりの中で存在し、我を思える身が在る事の有り難さを感じている。苦も楽も生きている証として、生命の味わいを受ける事の出来るこの身を頂いている事への感謝は、両親、先祖へ言い尽くせない程である。縁起としてこの身が在るとしても摩訶不思議なくらい、我欲に恥じるくらい、慈悲の有り難き幸せを感じる。これは、生有りしの時。死すれば命日が誕生日となる。今の生の縁で死の縁を持つ事が出来る訳だ。死は未知だから怖いとか想像し難いとかあるにせよ、同じ様な物質世界が有る無いすら分からないにせよ、生前に想い願う事は、平穏無事な生の日々の唯一の楽しみである。我あらねば自己も無い。自己無き自己としてやっとホトケになれる。ややこしいが、ホトケになる事が楽しみである。だから生きて行ける。そう思って誕生日を迎えた。

そして、自分の歴史も地球の歴史も、はたまた宇宙万物の歴史も「自然」の領域なのだろうか。言い換えれば、原発の右往左往も人類の行為の蓄積として「自然」の領域なのだろうか。そして、「自然」とは何なんだろうか。

2011年10月11日