浄土宗 伝授山 長応院


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第20回  風潮の中での生き方

今や情報社会と言われる。TV、新聞、インターネット、雑誌、噂話、等。根拠の無い話、情報が事実めいて流れて行く。現に先の原発事故の際も風評被害が起きた。差別も起きた。今や、情報はものすごい勢いで網羅した伝達で行き渡る。受け手も興味本位でたくしたてまくる。根も葉もない話がすごいリアリティを持ってモンスター化する。政治も媒体するメディアによって歪曲する。TV等はおぞましい音楽付きである。こうなれば、もはや事実が問題ではなく、事実らしきものに覆いかぶさる風潮の向きが左右する。これは、恐ろしい現象である。

一対一の会話(情報交換)でもその互いの認識が異なる事は分かりつつも、起こる感情は勝手なものである。受信機である己体は、過去の体験や予知や知性やらの感受性からリアリティを創造しては、そこに感情を落とし込む。言ってみれば実体無き言葉の霊によって思いや情に浮遊する。

群像。世の中の形とはと聞かれて、これですと示す実体は無い。しかし、皆が共有溝として最大公約数的な概念があるように感じているかも知れない。時代感覚は、おぼろげながらそれと自己を照らし合わせながら、ある種、実体化された風潮が生まれるのかも知れない。その基軸に政治形体、自由主義、土着性、民族性、倫理・道徳観などあるのだろうが、、。

ただ、この風潮が怖いのである。世の中の形なき定説になりうるからであり、そこには、人間の強欲が何処かにありそうだからである。因果の善し悪しは先ず無いはずであるが、そこに善し悪しを付けたがる人間は身勝手なものであり、又、感情の高揚を当たり前として付帯する。

言うならば、冷静な己の判断と行動が仏教徒の姿勢であるかも知れない。「情」。リッシンベンに青いと書くが、情に頼って生活するのはまだ心が青い、若い、と言う事なのだろうか。

2012年2月2日