浄土宗 伝授山 長応院


住職の豆コラムアーカイブ一覧へ戻る

第40回 仏教と個性

仏教は政治でいうところの共産主義ではありませんが、論理的に共産的な発想があります。サンガ(僧伽)という言葉があり、戒律を軸に修行僧共同体です。仏様を中心に皆平等で労働(作務)を分け助け合いの集団です。資本に頼ることなく乞食(こつじき)の生活です。今でも南方系仏教で行われております。至って日本仏教は、世の習いに準じてその和合の精神だけを受け継いで保持されています。そういう社会では個性は消されます。意味のない自我を表に出すことはもってのほかなのです。さて大衆では明治開化以来、特に戦後、西欧文化が到来すると一変します。個人の尊重、個性が重んじられ現代史上の文化、芸術はそれらを表出することが欧米型自由を軸に民主主義と共に謳歌してきました。しかし、ここ最近特に3.11以降地球全体の変調や生命体としての人間行為自身に疑いの目や不安が浮かび上がってきました。個人の力や個性といったものの限界です。そういううねりの中で今再びサンガの精神が蘇るのです。超資本主義の末路、民主国家のねじれ、格差社会や拝金的経済。アート市場に見れば個性が尊重されるとする美術が付加価値を持って作家も乗じて妙なことになってきました。情報通信体型もグローバル化し貪瞋痴をあらわにし、さもすると時の流れが速くなったかの妄想にかられます。戦後70年、明治開化150年くらいの出来事です。今一部の人はこうした状況に虚無感や異議を唱え模索し始めました。培ってきた風土を見直し古来より持つ日本の感性や霊性といった心の遺伝子に持つルーツです。神道に見る自然観、仏教に見る知性があらためて個を超えた共有する宝として見直すというものです。個の表出に疲れた今、大変共感いたします。サンガ体型に見る個性を再考する時代が来たかと予感するのです。時に西洋型ユートピア思想や哲学が東洋哲学の後追いをしてきたのは偶然としても。しかし自我の執着から逃れられない凡夫はどうしたら良いのか、そこに浄土教という仏教の答えがあるのだと思います。つまり自行で越えられない我らです。その時点では個性はもはや自慢気に表出するものでもないでしょう。私は美術が好きです。でも個々の表出されたモノに執着しません。そこから一線越えた何かに追い求めるのが本義だと思っています。個性は尊重します。ただ、それは法の理の上に立ってどのように扱われるかです。そして今、個の扱われ方が変化してきたかのように思います。釈迦はそれずっと見続けているのかもしれません。


2015年6月8日