浄土宗 伝授山 長応院


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第37回 美の収集

「美」
美しいものを得たい、それは人間の習性本能かも知れない。
その美学は何処にあるのか。美は物か。
美学という観念がある。実体こそ無い。
美術品は物質である。(観念を主体にする時もあるが)
観念に従って美を得るか、物質をもって美を得るか。
「物と心」。(大森荘蔵)
美は日常の中にさりげなく在る。
しかし、美術家は、真を追う者として個を掘り下げ悟らんとする。
美は混同しがちにも宗教と哲学を時に往復する。
美はお金で買えない。が、美術作家は物を作り換金する事が出来る。
作家は金がないと生活に困る。
美は強要出来ない。
それぞれの作家は、私はこれだと世に表出する。
この連鎖は誠に消費資本主義社会にある。
美術家はいらないのかもしれない。
俗世に美を極めるのは大変かも知れない。
しかし、美は僧が修行をして少しでも悟りに近づこうとする事と酷似している。
「悟り」は物として買えるか。そうはゆかぬ。
そうすれば、美は掴みきれない永遠の課題かも知れない。
しかしながら、美は、語れこそ抽象的に難しくなれども、さもすれば、そこら辺にころがっている。
じゃ、美術作品という物は何なのであろうか。
そして、それをかき集める人間は何なのであろうか。
作品とは何か。
それらは、買い求める対象か。
美は固定出来るか。無常の中に過ぎ行く一点でしかないのか。流れゆく物か。
性的欲求含め、美は人間の欲物なのか。
美は我々にとって何が大切か。
美など所詮無いのかも知れない。
美があってこそ在る人と、美を認知しなくとも作品をつくり出す者。
美と言うからに美は存在するのであろうし、何も無ければ美と言うものは存在しない。
美は永遠の灯火か?人間認知の証か?美は美しいか?
戸惑いの中に、一点の絵を見ている。
美しさの拠り所とは何なんだろうか。
一片の問題として脳裏によぎる。が故に打ち消さなければならない。
しては、それが美であるか。
さて、恒久的な美はあるのか。無常なのか。
美は気付きと問いの中にあり、そして願いと祈りの中に眠る。


2015年3月10日