浄土宗 伝授山 長応院


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第17回  不安と安心U

本当の安心とは何か。物に頼る事の多い社会の中でそれを認識する心が荒んでいれば、物の意味がありません。物と心は調和であります。ところがそれが崩れてしまうと我々は不安を覚えます。欲が満たされない状態です。では、それが満たされれば安心かと思いきや、欲は欲を覚えるものです。この輪廻から解脱する事、ここ仏教の意味があるのですが、そう容易ではありません。ましてや自力でこれを解決しようものは誠に激しい川を一人で渡るようなものです。もし頼りになる船頭さんがいれば、又、向こうの岸から綱で引っ張ってくれる人がいれば自分一人ならずとも皆で川を渡る事が出来ましょう。これの如し、わが浄土宗は、阿弥陀仏の本願(誰をも救うと誓いをたてられた慈悲をつかさどる仏さま)にすがる事で救われ解脱の地、極楽往生出来ると説いています。こうした頼もしい仏を身近に想うとき、これこそ大安心を覚えるのではないでしょうか。そうかと言って、すぐさま信ずる事は難しいかも知れませんが、阿弥陀さまの名を一生懸命呼んで行ずれば、菩提心が宿ると共に、必ず極楽往生を得る事が出来ましょう。そうした生活の中に初めて安心が生まれるのだと思います。
法然上人の名の由来には「世の法(道理)に自然体に向き合う」=「自然法爾」の意味があります。又一方、弟子に向けた遺言の中に「観念の念仏にあらず」と記されていました。こうした事から、頭で考えたり、知恵を持ってしてする念仏行では無く、ごく自然体に弥陀仏にすがる想いに徹しなさい、と言われている様に私には聞こえるのです。そう言う意味では、角が立った欲を捨てる事も生活の中の精進かもしれません。

自は他になる事は出来ない。その逆もしかり。自は他によって認識される。その逆もしかり。頼りない自意識も含めて自他は結局境が無い。となると、実体程信用が無いものは無い。全ては認識(感覚)の上に立つ。ならば、その認識を高めよ。言い換えれば、心を高めよ。ホトケに近づく第一歩である。

2011年11月21日