浄土宗 伝授山 長応院


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第98回 やさしさへの回帰

最近思うに、世は、物も情報も思考も目まぐるしく加速してゆったりとした時間を過ごすことを忘れているようです。そうなると人間の行動も気ぜわしくなり、人間関係がギクシャクしたり、イライラしたり、理不尽な様子が事件事故に発展して醜さを露呈しています。
デジタル社会にあってはお年寄りは蚊帳の外、歩いて買い物も大変なのにネット注文のやり方がわからず、一方、若者や実年層はSNSの上に生活が成り立っており、スマホ無しでは生きていけない状況です。
生産性、合理性、物流増大、グローバル化の拡大をしながらもナショナリズムが台頭して荒々しさを増しています。
昔は、人間はもっと優しくなかったでしょうか。「お陰様で」などと他人を気遣った会話がもっとあったように記憶しています。SNS上の仮想空間で繰り広げられる乾いた会話でなく、やさしさ、温もりのある現実の会話がなされていたように思います。
デジタル時代にお年寄りも若者もそれぞれに違った意味で孤立化しています。それはまさに一つの社会にある物と心のねじれた現象でしょう。
やさしさ、温かさ、情け、気遣い、哀れみ、思いやり、こうしたことは心を磨く中で育つものです。仏教は縁起を説くからに、「私はあなたがいるからいるのです(自他同一)」という論理であり、他者への思い(利他行、布施行)を引き出します。自分中心では事外れであります。
これからAIの時代になるでしょうが、こういう感情をロボットが持ったとき、人間が人間らしく生きることがさらに問われそうです。
便利な生活になったとは言いながら、失ったものも多いかもしれませんが、心の感受性や美しさは失いたく無いものです。今あらためて「やさしさ」を望む時だと思うのです。その為にも日々の念仏に心込めて勤めている自分がおります。真の自由とは、物と心の超越、つまりは生死の超越であり、禅僧南直哉師曰く「死の消去」にことなりません。とすれば、やさしさは、慈悲の光明として凡夫の我々に一匙とも頂いた糧だと思うのです。


2019年8月17日