浄土宗 伝授山 長応院


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第97回 群れの意識と流れ

世の中の動向とか流行りというものがあるとすると、その底辺には何があるのでしょうか。天災や戦禍のお灸を据えられても立ち直り未来に向かって進まんとする姿は素晴らしいと賞賛されますが、人間の進む道は何か大きな目標があるのでしょうか、それとも常に淀んでいるだけでしょうか。政治、経済、文化など一人が生むわけでなく、民主的に多数の向きを持って方向性や向きを作って行きますが、当然そこにはマジョリティ、マイノリティというものがあります。しかし大きな群れはその部分も淘汰されて動いていきます。この構図で世が流れていると思うと均一に精査して見つめる眼という知恵が必要でしょう。
デジタル化の波の勢いは止まらずして、グローバル化と共に膨張を広げています。少しずつの慣れる余裕も無く加速するばかりで、私なんぞおいてきぼりです。若い方は自在に付き合いますが、老齢の方は特にお困りでしょう。このことに関しては基盤となるゼロ点が動いたと思うくらいの時代に乗れない劣等感やシステムへの疑心暗鬼を感じつつ素直になれない自分がいます。何故なら「思うようにならない」という仏教のセリフからして「思うようにしたい」という文化社会の方向性に違和感を感じるからです。
例えばデジタル写真の加工技術はもうどうにでもなる勢いで、肉片の素材写真を美女にしてしまう事もできますし、色も形もどうにでもなるということは、もはやアナログ写真の根底を変えなければいけません。(所詮写真は嘘でしょうが)人工知能の発達も加わればどんどん世界が変わっていくでしょう。
人間、生命、まつわる倫理観も変わって行くことを考えると、単なる利便性、合理性の話ではないようで、「思うようにならない」と解釈してきた仏教はそのゼロ点を再解釈していかねばならないかもしれません。
「思うようにできる」という慢心が広がることが怖いと思う昨今です。
今この群れが進行拡大する中、取り違えた民主・資本主義の「自由」に発展する怖さを感じております。他者とのギスギス感や暗黙、もっと昔は柔らかで優しかったと思うのは私だけでしょうか。一切は「こころ」から、という仏教の立場からしてとも生きの思考にリセットをかけたいものと思うのです。


2019年7月19日