浄土宗 伝授山 長応院


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第96回 我身の存在

自分の存在を疑う余地もなく今ここに居るのだから何問題はないではないか、と思われるのは確かにそうです。「我思う、故に我在り」とは哲学者デカルトの言葉です。では、もしもお釈迦様が申したらどうなるでしょう。「我思う、故に我無し」とでもおっしゃるでしょうか。見ている観点が違うとなればそれまででしょうが、そもそも仏教では、考える確たる自己は無いと考えます。縁起によって、簡単に申すと「関係から頂戴したかりそめの命、体」なのであり、自発的に在る物体ではないと考えます。恒常する自己は無いと考えますし、全て心によって物は成立すると考えます。当然その物ですら定まっているわけではありません。いわば何一つ、時間もそうですが無常だという立場をとります。そういう中で、私たちは、唯一の「有」を抱くことで、この煩悩、執着に満ちた不安に安心の拠り所を求めるわけです。それが正しくも浄土教の発想です。仏教は心を中心に話します。極楽浄土とは唯一心の中に大きく在る訳で、往生(生まれ往く)するところとして存在するのです。凡夫の我々が救われる場所があるということは実に有難いことです。申しておきますが、この発想も釈尊以来の論議の中で培われてきた賜物であります。極めれば、凡夫はいつも行き先を案じているのが実状でしょう。唯物主義者は死を恐れるでしょうが、我々にとって、死は絶壁ではないはずです。死は通過点であり、さらに他者の心に生き往くのです。親子に別れがあっても関係は不変です。今一点の時の幸せを感じる心を磨くことに私たちの精進があると思うのです。稀有な命を頂戴した私たちの唯一の仕事かもしれません。


南無阿弥陀仏

2019年5月21日