浄土宗 伝授山 長応院


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第95回 個人化の進む中で

今やネット文化も追い風に物流も人間の行動や価値観もグローバル化し均一化する中で、日本独自の伝統的文化を維持することも難しい状況になってきました。インフラも孤島に橋を一本通すだけで、物は拡散し、コンビニができれば物質的生活が豊かになります。イオンができれば町が生まれ、私たちは一見、不自由のない生活となりましょう。同時に情報も過多といわれるほど溢れ、判断の余裕すらありません。「昔ながらの」と言う言葉も追いやられ、伝統は消え、どんどん生産性、効率性、合理性で覆い尽くされているようです。ご年配の方ならお分かりと思いますが、終戦後、日本は経済成長に邁進し、資本主義の盲信から失ったものことは大きいようです。バブル期は、とにかくお金中心でしたが、今、生活が散漫とし、自然災害も加え、労働すること、生きること、人生の目的意識など、心の問題が表出しています。そこへ来て終活問題。誠にさみしい限りです。拠り所はSNSで繋がっている擬安心。さて、私たちはどうしたらいいのでしょうか。
一言で申し上げれば、「心を鍛える」でしょうか。物と心の調和の中で生きている私たちは、とかくすると、物にばかり偏りがちです。どのようにその物と接するか、心で解釈するかというところが大切でしょうし、本当のことは心で見るとはそういう事でしょう。言い換えれば、他者への眼差しを訓練する事です。それは、人のみならず、目の前の物や空気や光らもそうです。そして統合される仏こそその象徴となるでしょう。
一つに念仏は正にそうした鍛える方法かもしれません。勝手な自己確認ではなく、他に気づく我なのでしょうし、念仏は自他共に気づきあう呼応なのです。そこで初めて自己を覚えることになりましょう。そうした自他の循環にあっての眼差しは、勝手を制し本当を知るものとなりましょう。
先に挙げた現代の心の問題解決の糸口は、こうした仏理の上に訓練された眼差しの指向性かもしれません。どうか道理に暗い我をよそに勝手になりがちな眼差しにゆっくりと静寂を取り戻し、気づく訓練をしていただきたく思います。


2019年3月13日