浄土宗 伝授山 長応院


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第94回 終活という響きと個人化

最近、樹木葬や、海への散骨、先祖代々墓など墓のあり方が「終活ブーム」に煽られて諸々のアイデアや考え方が取りざたされています。また、葬儀のあり方にも変化があり、今では家族葬や一日葬なども一般的になっております。(実際、葬儀社や石材店の競争も激しい)連動して、年回法事もこじんまりとなり、今回は中止という事も多くなってきました。寺は、布施収入が護持に関わる事なのでその減少は致命的です。これは当山だけでなく全国的な現象です。

何故こういう風潮になってきたのでしょうか?色々考えられるのですが、とかく形式的と捉えられがちな仏事は、本来その教えを説く事なのですが、一般的に俗世では、道理といわれるその内容に気づきを持って捉えることが出来ない人の性分があります。私もそうですが、愚かさと智慧の気づきとその上の生き方が問題なのですが、どうもアンテナの方向が現実的な興味以上に薄いかもしれません。

今や経済循環や高齢化も関係すると思いますが、それよりも、社会の個人化が影響していると思われます。「迷惑かけずに」「こじんまりと」「故人の意思で」(故人の意思に報いることが供養になるかは疑念が残るが)という言葉をよく耳にします。一見、慎ましく思われがちな考え方ですが、縁起(全てはつながっている)を説く仏教からすれば、生老病死は平等であり、一人では存在しない理りからして、昔よりその上に立って先祖を敬い、頂いた我が命の有り難さを覚え、心を磨いて生活をさせていただく身を感じることへつながる先人の知恵だったはずです。法事も墓参りも、とかくそういう理りを忘れがちな我が身を省みる習慣だったはずです。仏教で一番敬遠される「自分勝手」な行動に形式化として軽んじられていく風潮は寂しい限りです。

核家族化する中に昔ほどの家意識も変わってきていますし、せっかく伝わってきた伝承も途絶えがちです。仏事にあたっては「どうしていいか分からない」という質問も多くなりました。家を継ぐという感覚も薄れ、うっとうしい家の習わしから解放されつつ、ネット社会も加担して、楽しみも考え方も生き方も個人化していくような気がいたします。そうなれば、檀家という表現もなくなることでしょう。(メンバー制になるのかな)

ここ最近のネット社会は情報や物流も加速化し便利にはなったものの、その加速度に本来持つ穏やかな変化について行けない心身、文化の二重構造の仕業に何か原因がありそうです。自虐的構造であり、グローバル化によるアイデンティティーの喪失です。心身の相反する合理性が時に自分を見失い、「癒し」を求め寺院に来られる。パワースポット巡り、ヨガやマインドフルネスやら御朱印集めやら。しかし申し訳ありませんが、我々は、虎視眈々と法を説くだけです。

こうした社会構造の変化に関して、これも「世の流れ」ですから仕方のないことでしょうが、唯一申し上げたいことは、「世の習い」(法然)としても、縁起の道理に暗いのが世の中としても、気づきの向上だけは心に持ちたいものです。そして思うに、個人化となってもさて、「個人」というなら、本来確証なきものです。個は他によって成る道理からして個だけで成立しません。

終活ブームとやらは、自分の死を前提に準備することで良い事でしょうが、どうかこうした背景にあって、自分勝手にならず、他者と共にあるべき姿として考えていただきたいと思います。そしてゆっくりと往生の仕方を目指したいと願うところです。それが本来の終活でしょう。


2019年1月29日