浄土宗 伝授山 長応院


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第91回 空と念仏

浄土宗ではあまり「空(くう)」を直接的に説かないのですが、教えの流れには龍樹や世親の説いた中観、唯識の空の思想があります。
簡単に申し上げると実体は無く心の現象に過ぎない、ということでしょうか。そうなるとこの「無」を私たちはどのように受け止めるか、に関わってくることになります。
そこで絶対的な「有」が必要になってきます。それが阿弥陀仏、極楽浄土の存在です。しかしながらこういった構図を一般的に話すことは「迷い」を引き起こしがちですので、「念仏一向」のお話となるわけです。
本来、説教は対機説法ですから一対一でしょうが、大衆にと全体を対象にするとなりますと、法然が答えを出した結果論にとどまりやすいのかもしれません。
ただし、西洋でも仏教に追いつくなかれ西洋哲学の流れからの寄り添いが見られるようになり、そうした今日的な知恵ある者も大勢いらっしゃる中、少々論理的になりますが、この手の噛み砕き方も一理あると思います。1+1が2でも何故2なのかも今日的知恵解釈かもしれません。
しかし、形而上学理論に終わらず、宗教体験上、空に身体性(身口意)をもたらした念仏の性格が哲学では無いものになっているのでしょう。
法然の勉学と宗教体験が実を結んだ浄土教の世界は、万人を救う想いにもこうした優しくもインテリジェンスをも感じるのです。



2018年12月3日