浄土宗 伝授山 長応院


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第89回 写真は残さない

時の呪縛で写真を語るならば、何を残すと言うのだろうか。リアリティの望郷か。ならば、それ以外の絵としての写真は、それはリアリティのだまし絵だ。それだけに、写真は頼りないものである。真実は、どこにも無い。鵜呑みの写実は、危険だ。リアリティの上で語る全てが真実だと思う。残す、と言うことは、写真に対する無明な欲望の加担だと思う。

写真の現実の複写という言い方があるが、それにしても虚界の霊像の論理からすれば、誠で無く、リアリティの感覚にゆだねることになる。故に真実は無い。先のだまし絵と同じ事。 故に写真は、本当の事、では無く、各人の受け取る感性によるところになる。ならば、何故、写真を撮るのだろうか?事すると写真を撮る事の意味は無いのかもしれない。
絵としての以上はリアリティの近き道具以上完結したものではない気がする。
そうなると、見る側の資質思慮が伴う。学びと修行だ。
だが故に、写真はヒューマニズムを語る最良の道具かもしれない。
写真自体は何も残さない。
でも、おのれは独自に存在せず、他に共有されている。



2018年12月1日