浄土宗 伝授山 長応院


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第88回 時の呪縛U・写真

仏教に於いて「時は流れず」「時は無い」というのが考え方のスタンスです。因縁生起、諸行無常からすればそう解釈出来るでしょう。では、何故人は写真を撮るのでしょうか。「時よ止まれ、残したい」という願いと祈りがそこにあるようです。一方、生命体としての人間は種族保存、生命維持、繁栄という本能が備わっており、慈愛によって我々は「残す」という行動にも自然とかられているのかもしれません。
一体、この差は何なのでしょうか。一方で「常無く止まらない」「一切皆空」と言い、一方で「時を止めたい、残したい」とする行為。欲する切望です。無常と分かっているからこそ、儚くも刹那な思いによる行動かもしれません。この事が矛盾と言えばそれまでですが、日本人にとっては、それが美しい行動であり慈愛故の表れなのかもしれません。決して、自己表現といういかがわしいものでなく、、。遡れば平安時代の源氏物語もしかり、私達にはそういうDNAがあるのかもしれません。写真というものはそう言う意味では、刹那な道具です。実際物質化する訳ですから消える運命なのに残すと言う行為。いいんです。行為だけである意味十分なのかもしれません。時をとらえたがの如く満悦になり、共有を求め、何か錯覚の上で心を表しているがの如く。たとえ、人が見たものでなく写真機がとらえたものであるとしても。私は、ここに確固たる自己がある訳でもなく表現すらおぼつかない虚界の霊像のスパイラルに陥っているのかもしれないと思うのです。時の呪縛です。この上で私は写真が矛盾であり矛盾でない境界に無を無と言ってしまう、ないしは、空を空と当てはめてしまう人の何かに美しさを求めるのです。



2018年11月30日