浄土宗 伝授山 長応院


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第87回 おぼろげな個人

自己中心的とか自分勝手だとか個人を個人たらしめる根拠は何なのかと思うときがあります。作家が自己表現と言いつつ作品をつくる事が美しさとどう関係があるのでしょうか。
歴史的に見ても現代は個人主義に慣れて自由主義と噛み合ってどこか好きなように自由奔放な生き方が素晴らしいとさえ言われています。個の命の尊重が絶対的なものになる事がどういうことなのでしょうか。
個は他によって存在せしめられます。このことは、個は個だけで存在しないということです。意志の決定は他者から育まれたもので、他者なき表現は美しさを伴いません。つまり自己らしき表現ほど無明を露呈しているものはないでしょう。自他の共有の境界にあって美が存在するのであり、個という独立したものは無いと思います。又は、個を存在せしめる事だけでいいのでしょうか。私もそういう気持ちに傾倒しつつ、でも理に矛盾するでしょう。妄想になります。
物体としての個は恵まれたものであり、個の決定で存在していません。このことは死ぬまで続くのであり、すべては意志だけで物体を動かすことはできません。生命のスパイラルの一滴にすぎません。自己意識とはその瞬間の火花かもしれません。
その上で個体のその一瞬の存在を単に美しさで昇華することはどういうことかとも思います。淡々とした生命です。そうした流れの中で自己をどう見るか、他者から存在を加担される自己は何なのか、私はそういう中で俺はこうだ!と言える確信はどうもありそうではありません。
おぼろげな個人としてあやしき存在に漂っています。仏教は確信無き確信に不安を問う性格をどこかに持っていて、絶対神のようなデジタルアンサーを求めてはいないかもしれません。仏教は問いを生み出すことにいつも求められているのです。人は確証なき確証を求める刹那な生命体なのかも知れません。



2018年11月28日