浄土宗 伝授山 長応院


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>第84回 坊さんとは一体何者か

一般的に僧侶のイメージをうかがうと、スリランカやタイの様な上座仏教の修行僧の姿を思い浮かべたり、又は荒行や本山に篭った修行をして来た人たちであったり、俗世から離れて雲の上にいるようなイメージであったり、悟った聖人の様であったりと何もかも知っている偉い人だったりもするかもしれません。その反面、風習に居座って私利私欲に走る生臭坊主とも揶揄される時があります。と言っても本来、戒律にあっては、賢者というよりニートでなければならないでしょうね。
さておき今、特に震災後、心の救済が必要の世に仏教の出番とあっても私たちの行動や法話も聞き手はスルーされることも多く中々合致しあえないもどかしさを感じます。坊さんに話す事ではないだとか、(よっぽど信頼がないのか)尋ねる対象に思い当たらない様で、やっと葬儀や法事など儀式になって必要とされることが多いです。つまりは、坊さんは儀式上の祭祀者であって心や悩みの相談者の対象になっていないという近頃の風習や慣例や、つながりが希薄になっているないしは、葬式仏教と言う解釈が蔓延しているゆえかもしれません。信用の問題でしょうし、見方見られ方の問題でしょう。双方の歯がゆさがあります。最近は、寺にたずねるよりネット検索による自己流解釈が目立ちます。
二つ申したいことがあります。一つには、その立場。一言に仏教と申しましても中国大陸から伝来した仏教は小乗仏教(上座仏教)という自分だけが悟り信者がそれを崇めるというものではなく、大乗仏教は、仏教哲理の上に衆生救済の又は、大衆と共に悟る事を目的として発展してきました。特に浄土教が顕著です。苦の輪廻からの解脱を浄土への往生、成仏というどんな人でも救われる教えにあります。と言っても、鎌倉期までは風土慣習から農民、武士は近づけませんでしたが、殺生して生活する人々も救われるという浄土教の教えはありがたかったでしょう。今に至り、人の生活、環境も変わりましたが、悪人や凡夫である立場は昔以上に複雑です。こうした状況に僧侶も俗に身をおいて聖俗境なく実際の生活の中で客観的に思考し捉えていく立場が重要だということです。その時代に合わせてアップデートしながら仏教を語ることが必要だという信念です。常に現代仏教の模索です。俗に言う世俗化という気持ちではありません。 二つめには、方便。仏教の根本は「縁起」の説法です。しかし、それをお伝えする方法は教科書を使って教えるものでなく、時代の言葉、解釈により所です。そうしますと時代の喩えを使い学問的ではなく、大衆の言葉を借りて説法をします。ですから、我々は、学問として修行や勉強研鑽する一方で、普通の生活と両面で仏教を捉えております。形骸化、形式化などと言う批判は耳にしますが、それは私どもの感覚ではなく、常に最新の仏教を届けられる様勤めております。
さて、そうは言っても寺や僧侶は世間から少々離れたところにいるように思われがちです。法施、布施、無畏施からなる我々は社会構造の中では確かに異次元的かもしれませんが、人は人です。Work as Lifeではありませんが、対価価値労働という意識無く(本来、僧侶は労働せずでしょうね)常に探究心を持って真の生死を立証する心構えでいるのが我々僧侶だと思うのです。ともに煩悩を語り、悟りを語る、道しるべをともに考え生き往く船頭かもしれません。哲学者でもなく、思想家でもなく、倫理道徳学者でもなく、心理学者でもなく、宗教学者でもないのでしょうが、ともするとそうした全てを有するものでもあるかもしれません。単に命と心を基軸に苦の解脱を思考精進する人です。
仏教儀礼には大きく風土に培った大衆の風習、慣例によるところが多いのですが、根本は「縁起(法)を説く」でありますから、時代性に合わせ形はこれからも、ことに今現時点、どんどんと変化して行くことでしょう。(今時期のお盆もそうですし、葬儀でさえも「葬式=寺」ではなかったのです)
社会の勝手な潮流に迎合せず、真摯に一緒に此岸へ船を漕いでいきましょう。
どうぞお付き合いよろしくお願いします。愚痴第二弾になってしまいました。


2018年7月21日