浄土宗 伝授山 長応院


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第82回 なぜ墓参りするのか

釈迦こそ、法然上人こそ、お墓は要らぬ、教えや念仏のある所が我が遺跡なりと言っていたそうですが、実際、仏舎利塔は日本含めアジア地域に点在し、つい先日も総本山知恩院から芝の大本山増上寺に法然上人の御遺骨一部が移されました。仏教の理として誰とて亡き後は、骨を五大に返すというのが理想と思うのですが、本人の意思とは別に周囲の人は、遺跡をとどめ祈る気持ちになりましょう。
ご葬儀もそうですが、亡き人と送る側の接点に疎通がどのようにあるのでしょうか。よく、本人の意思でこうこうしますと準じて葬儀やらぬ、墓いらない、と最近聞きますが、亡き本人の意思を尊重してあげることが、報いになるのでしょうか。一般的には私もそうは思いますが、利権上などの遺言は分かりますが、心情や精神的な事は、一蓮托生(自他ともに在る)の言葉にもつながるように指図は出来ないはずだとも思うのです。亡き後は、周囲の想いで送るのでしょうし、墓もなければ、一般的に手を合わす場所もありません。心の中に、と言うでしょうが、そうなかなか人は賢くありません。
遺骨とはいえ中身は物質的にカルシウムの骸です。しかし、物のかけらでも存在と心の拠り所になるのでしょうし、向き合う場所が整い、想いと共に生死流転の無常観に気づき自己の内省へと心運ぶ時空間を持つことと思います。だからこそ亡き人を仏様と呼ぶのだと思います。
又、仏教は縁を説きますが、まさにご先祖様への感謝を思う時が不思議な自身の存在を明らかにし、この身もまた往生を受ける覚悟を確かめる場でもありましょう。
こうして考えると、人間は一人で生きてはいない訳で、「意のままにはならない」と言う釈迦の教えの通り、弥陀に後は任せているのであれば、日頃、勝手にならず、供養し供養される環境と縁の気づきの種を生前に振りまいておくことが大切だと思います。一人で勝手に仏になる事はないのですから。
こうした事をお墓参りの度に仏様が教えてくださるのだと思います。
それでも無縁墓が増える中、自他共存の環境が崩れゆく世の姿が寂しく思う今日この頃です。



2018年6月14日