浄土宗 伝授山 長応院


住職の豆コラムアーカイブ一覧へ戻る

第81回 楽しかった数を数えよう

欲しいものが手に入らないとイライラ。欲しいものを他人が持っていたらその人に嫉妬。比べて下と思えば悔しさ。まあ、人間は欲を持ってして生きています。それを超えるのが仏道の在り方なのでしょうが、難しいですね。それを苦から来ている、愚かさから来ているとでも客観的に自分を見ることができればまず及第点。でも、愚痴をこぼしてその苦の数を積み重ねてはいませんか。聞くと「苦しい、辛い」話ばかりしている方が多いように感じます。
ここを一変して「楽しい数」を数えるように心がけてみたらどうでしょう。今日一日の楽しかったことを上げて、それを感謝に運ぶと先の「苦や辛さ」がなんでもなかったように感じることでしょう。アミダマジックです。
私は家族写真をよく撮るのですが、不思議な事に、楽しい時だけ写真を撮っているのに気がつきます。喧嘩したりする時は撮っていないのです。これは、楽しい記録だけを残す、不快な時は記録しないのであれば、本当の家族写真ではありません。しかし、私たちは、そういう不快なときこそ生活のリアリティがあるのだとも思います。と言って不快な瞬間にシャッターなんて押せませんね。でも本当は、両者とものあるべきです。
このことは、現実と希望(欲望)なのだと思います。良いことを残し、悪いことは愚痴で誤魔化す。そこで、出てくるキーワードは「無分別智」。善悪の判断をする前段階で悟る知恵です。日頃、つい、良し悪しの判断を付けて事を進めがちですが、その一歩手前で、この現象はどういう事なのかを、道理に合わせてから判断をすべきでしょう。
さて、そうは言っても中々冷静にいかぬのが実状かもしれませんが、貪瞋痴とわきまえて感情に偏る事なく、分別の奥に何があるのかを思考したいですね。そう思うと、幸せの数を数えて行くのが最も幸せなのでしょう。そこに慣れてくれば、いわゆる「安心(あんじん)」の道なのでしょう。



2018年5月19日