浄土宗 伝授山 長応院


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第79回 死の絶対感と無分別智の生活

多くの人は、「死」を絶対的最後と思うでしょうが、仏教では、悟りを目標にする故、えっと思われるかもしれませんが生死は二次的課題であります。そういうと、心は肉体無しには語れるまい、とおっしゃるかもしれませんが、肉体という物体は無常であり実体ではないと言います。一方、無分別智(むふんべっち)という境地は事象に良い悪いとか、上下、左右、高低、白黒つけたがる分別のとらわれの生き方から離れるということであり、生死もその対象になるということです。確かに私たちは生死背中合わせの最中に立っているわけですが、そこにかじりつく気持ちにとらわれず、心穏やかに自然にありのままに中道を歩む受け身の生き方が良いのかもしれません。頂いた我が身命、生きて当たり前、死んで当たり前、何も腹を立てることもないでしょうね。もっとも今という今にありのままの状態に気づきを持ってして感謝の向きに心を保ちたいものです。その心次第では、死の絶対感に慌てることはないでしょう。



2018年4月26日