浄土宗 伝授山 長応院


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第78回 悟りと言う言葉の扱い方

仏教は悟りに向かった教えであると言いますが、それがどういう形をしているのか分かりません。第一お釈迦様が悟ったと言われていますが誰がそれを認めたのでしょうか。形のない言葉で言い表せないことを他者がそれを悟りと認識したのか難しい話です。
お釈迦様以降、僧たちが時間をかけて実践研究し縁起、四諦、八正道と整理してきましたが、悟りを悟りとして言語化するのは無理だと思います。そこには、世の摂理と得る方法を感覚として共有し通底する何かを感じることになります。それが集約されて今に至っております。
法然はいくら学問的に繰り返し勉強してもその悟りを得られない点に気づきを見出しました。愚に気づき愚が救われる道から悟りという真の自由を導き出したのです。それが、極楽往生論でした。弥陀の本願にすがり念仏して往生する決意です。これが浄土教です。
ですから浄土宗においては、あまり悟りという言い方をしませんし(結果としてその境地を示すのでしょうが)あくまで極楽往生願うことを専念とします。自発的な境地への到達ではなく弥陀への他力に任す道なのです。
とは言っても最初はお釈迦様ですから悟りへの、自由の境地への道筋は一緒です。
その悟りの修行に妨げになることとして戒律があります。浄土宗では念仏が本意ですからその妨げになるものとしてその素地を汲んではいるものの、初期仏教ほどの厳粛なものとしてとらえず、愚かさに道を外すこともある人間として慈悲を頂きながら懺悔するわけです。
初期仏教は(ミャンマー、タイ、スリランカなどの南方系)各々の僧が厳しく戒律を守り修行をし、見守り応援するがごとく大衆が熱心に信仰します。一方日本仏教は(大乗)大衆と共に僧がリーダー役として悟りの導きを教えます。
こうして見ると、各祖師がお釈迦様の教えに対する答えを導き出しながら答えを出していったのでしょう。少なからずとも、浄土宗にご縁のある方はその念仏行の方法でその境地を得ることに縁を持ったのですから概念や観念で右往左往せず疑念持たず、幸運にも有り難き縁としてお受けになられるのが自然かと思います。いや悟りなんて、という方には特にうってつけだと思います。



2018年3月17日