浄土宗 伝授山 長応院


住職の豆コラムアーカイブ一覧へ戻る

第76回 今、この瞬間の事象、善悪無き必然である。だから念仏である

私たちは見識の中にどうも善悪の判断にとらわれているかと思います。事実に善悪はないはずです。体という物が滅するつまり死ぬということ自体、恐れ悲しみ消滅を判断して絶望を感じますが、生きている以上死は免れない事実です。生死は一体です。つまり、死は生を語り、生は死を語るのです。このこと自体生死のとらわれで善悪判断の感触と同じです。執着心です。
元々時間の概念がない仏教は、止まる事象もなければ因果によって立ち現れ、それを自己が事象を勝手に止めては色々な判断を作りとらわれます。そのとらわれの心が自分という概念を作り出すわけです。自分を自分と判断できるのは結局とらわれの象徴となるのです。全ては判断以前に必然として現れているのです。
そうなると真実は見えません。勝手な真実を妄想の中で繰り広げるだけです。よく無我の境地に至るとは、この違いなのでしょう。
涅槃とは真の自由を意味します。在る無い、去るもの来るもの、良い悪いなどのとらわれから解放された境地です。この世界に至るために仏教は座するものとして、瞑想したり修行をしたりするのですがなかなかそうもいかないところが現実でしょう。根本仏教が瞑想修行を重んじる点に対して日本に流れる大乗仏教は目線を一般大衆にも広げて悟るに悟りきれない凡夫を対象として広がっています。特に我々浄土教はそういう者がその境地に至る方法の一つとして往生することの物語を展開しています。
法蔵菩薩が凡夫往生を願いすべてのものを救うという阿弥陀如来になった念仏行のメソッドです。理屈はともかくその一つの物語にご縁を頂いて身を寄せることはその解脱の一歩でしょう。死の恐怖からとらわれを無にして往生を願う一心に行ずる(一心専念弥陀名号)は、安らかな安泰と不安から解放された境地に向かうことでしょう。生活はその安心によって健やかに安定するものと思います。まさに我々凡夫への教えです。
座禅瞑想という自行からのものではなく、他に寄り添い気づきを心身に薫習していく念仏行という易行です。とらわれの心を解放して自由の境地、極楽浄土へ生まれ往くというメソッドはなんとも楽しいではありませんか。
どうぞ、それを願って、またある意味では物語の中に生きることは決して愚かではないと思いますし、(自分や物と言う虚構に過信する事の方が愚かと思います)楽に構えて弥陀の本願に心身をゆだねてください。
あなたがいるから私がいるのです。意のままには決してなれません。執着を覚えたら、有難いと思ったら南無阿弥陀仏です。
弥陀の本願にこの世に生まれ出会えたことは本当に幸せだと思います。法然上人の遺言は「ただ一向に念仏すべし」でした。時の仏教界の智慧第一の法然房の答えだったのです。全ての事象を有り難く頂く事、それが念仏者の心得でしょう。



2018年3月3日