浄土宗 伝授山 長応院


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第75回 言葉で話すのは簡単だが

仏教は何を説いているのか。核になっているものはお釈迦さまの説いた「因縁生起/縁起論」であり因果律と現象論から成立する世にあって自分を見つめなさい、ということでしょうか。しかし難しそうで、理解しにくいですよね。お釈迦さまでさえ誤解を招くのを怖れた訳ですから。頭ごなしに理解したところで身にならないし、修行したところで気づきがなければ到達出来そうにもありません。いくら「悟り」と言っても誰が証明できるのでしょうか。
元々、お釈迦さまは、この世の真理を探求した一人の行者であり、哲学者でもなく、宗教家でもありませんでした。12月8日明けに悟られた、とされています。今でもその日は成道会として大切な仏教行事とされています。でも決して言葉でなくある種の体感として悟られしばらく余韻を楽しんだとあり、その後遊行をしながら教えを伝えるのですが、それも言葉だけでなく感覚から感覚に伝える言わば「以心伝心」のようなものです。
その後、学んだ者たちがまとめ、研究して経典が作られ体系化していく訳です。時に天文学的に、哲学的に、心理学的に、倫理学的に。そうした学僧に信仰が生まれ、宗教化し、衆生救済の形に変わっていくのです。浄土教もそうして誕生しました。
浄土教からすれば、念仏が唯一の行であり、願往生がお釈迦さまの答えだ、ということになるでしょうし、他各宗旨もそれぞれにおいてお釈迦さまの答えだと申すのでしょう。ただし、私はこの西洋の学識が後追いのように仏教に大きな興味を示す時代になって、少しはそういった中身の流れを知識として学んでもいいと思います。けれども先に書いたように、いくら頭に詰め込んだとしても仏教を理解したことにはならない事に気をつけなければいけません。身と心で体感する事の意味が深いのです。そうでなければただの思想ないしは哲学で終わってしまい、言葉の鎧から離れる事はできません。この事は、高祖と言われる龍樹が徹底的に言葉を使って言葉を否定している「空」という理念を表しています。 仏教を言葉で話したら百人百様に伝わるでしょう。勝手な感性で理解されては本意ではないでしょう。頭で理解するなら一日もあればいいかもしれませんが、そういかないところに積み重ねの行があるのであり、薫習の先に目覚めがあるのでしょうね。
ここまで書くと仏教は言葉や頭で理解するものではなさそうです。たとえそこで理解されたとしても、ロジカルな感覚や形而上学の作った妄想の満足でしかないでしょう。これだけなら、少々勉強したら学者ならずともある意味では簡単でしょう。そうはいかないところに、法悦という心身の感覚に覚えるところがあるのです。だとすると、塩梅良く言葉を聞き話し、行をして感覚に染み込ませ、気づきを磨き、総合的に体得してゆく他にないのでしょうね。
浄土宗では「ただ一向に念仏すべし」を布教します。ただし、お釈迦さまから龍樹そして法然に至る流れには、現代、重要な押さえどころとしてこれからもお話し致してゆきたいと思っています。

南無阿弥陀仏



2017年12月8日 成道会の日に