浄土宗 伝授山 長応院


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第73回 薫習と洗脳

若い方に宗教に対してのイメージを聞くと、洗脳されるから怖い、と答える。あらゆる新興宗教の突拍子もない精神世界に連れて行かれることは怖いと言うのである。とりわけ、ではそういう若い人たちがどれだけ既存の仏教や他三大宗教等について知識があるかというと、なんとなくと言うくらいで勝手なイメージを持っていることが多い。むしろ、無神教者を名乗る方が信頼できると思っているようだ。私が米国留学時代にあなたはどういう宗教を持っているかと尋ねられ、若い頃だったが故に、特に、、とごまかしたら、あなたを信じることができ無い、と思われたことがある。いわば宗教は自身のアイデンティティなのである。現在においては躊躇するところだが、過激で厄介な存在として宗教は意味付けられているかもしれない。日本の宗教には風土とかみ合い神道と仏教が織りなす自然崇拝と多神教的な特殊なものになっている。今では同じ仏教とはいえ上座部(タイ、スリランカなどの仏教)や欧米仏教の影響も加味されて現代日本仏教をなしている。ある意味では、古来の風習化ないしは形骸化された日本仏教は崩れはじめ、現代的に脱皮しようとしている。そういう中、学問や取り上げる研究者も増える一方、先の洗脳を恐れる若者も増え二極化の様相を呈している。ただ一つ言いたいことは、宗教は風土と祈りからなる必然なものだ。頭ごなしで契約するものではない。ましてや仏教は、確信的な自己を否定することから始まる。つまりその確信犯を疑うことから気づきをなじませ、道理を得るかにかかっている。つまり、一般的には洗脳を恐れるほど自己の確信に頼っているという無知がある。矛盾しているわけだ。個人的に私は、仏教を同じ宗教(契約的解釈の)のテーブルでは考え難いものがあると思っているので、安穏と祈りの原点にだけに寄り添って対外的には話すようにしているが、ただ縁を持ってして仏教は特に哲理の側面からして面白いなあ、と思っている次第である。長い歴史のなかで私たちはこうした宗教観が体に刷り込まれている。その上に立ってあらためて何々教にためらうのである。つまり薫習であり洗脳ではなく、薫習をいちいち頭で呼び出すことなく、新しい概念のようなものに慄くのであろう。自己なき自己の過信がそうさせるのであろうか。



2017年11月12日