浄土宗 伝授山 長応院


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第72回 死の葛藤について

人は、命あるものは、生あるものは、死にます。残念ながら自然の道理です。しかしながら、命あるものは滅すはこの世の道理だとしても、生を受けたものは、その必然としてその物体の形の最後はあるのです。
ある時、天災を受けた、事故をした、病気をした、老衰した、予想外にもこの肉体はデリケートですから諸条件によってその肉体の死を迎えます。これは仕方のないことです。そういう運命を私たち生き物は宿命として持っています。
長生きしたい、健康でありたい、楽でありたい、喜びに浸っていたい、そう願いたいものです。けれど、その希望や予想や欲得に反して、どうなるかわからない、思うようにはならない、も世の摂理です。この点を十分に理解して生きる命を全うできればこれ幸いなことはありません。
けれど、その相反した欲は、意図は、現実に勝てません。そこが肝を据える肝心なところです。
さて、その肝を据えるということに関してどれだけ私たちは、愚かでしょうか。今日寝れば明日が来る、当たり前に過ごしていると思います。
私たちはその平常に慣れ親しんで過ごしているかと思いますが、反して自然の理はいつなん時、何を受けるかわからない中に過ごしていること、そして、どこかで腹をくくること、が必要になるとも思います。
腹をくくること、これは言い換えれば、安心(あんじん)を奥底に据えることでありましょう。その安心をどこから生まれ持つのか、それが、信心と祈りかもしれません。頭で理解するもなく、意図的でもなく、心澄みやかにして、染み込んだ信心は体から離れることはありません。
つまりそれが、信仰生活であります。その元には逆説的ですが、じゃあ何故生を受けたのか、受ける喜び、稀な命を頂いた嬉しさ、この奇遇さ、こういった点も大いに感じなければならないでしょう。
日常という平凡さに身を投じるも現実は厳しい、けれどこの厳しさを味わうことのできる命を頂いている我が身をまたどのように気づきとともに味わうか、これが人間の生活の醍醐味だと思うのです。
その醍醐味(仏教では最上の味わい、喜び)を受けることができて初めて幸せを受けることができるのでしょう。
そのことが、単に肉体の死で終わらずに、他者によって生きながらえる我が身霊があるのでしょう。
死ぬ、と言う不安と予測に陽性的な光明があると身を持って感じることが重要だと思うのです。
ゆえに我の執着を捨て、愚に省みて、弥陀の本願に乗じて「南無、阿弥陀仏」だ思うのです。



2017年10月4日