浄土宗 伝授山 長応院


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第71回 意図する生活

求めることをやめよ、と申した法然の真意は何なのでしょうか。
私たちは、生活の中で選択の岐路に立つ時があります。右か左か。上か下か。良いか悪いか。しかし、縁起(因縁生起)の理からすればどちらを選んでもそれなりの結果があるだけで、もし違う選択をしていたらと悔やんでも仕方のないことです。
このように話すと、ではより精査して選ばねばと思うでしょうが、そういうことではありません。選択の岐路にひらめいた時すでに意図する乃至は善悪を予想する計画的な欲得があるのです。普段それ以外に意図せず無計画に所作行動をしていると思いますが、それ時は自然であり真の姿かもしれません。
そのような無意識の中に真の理を刷り込ませることが大切なのでしょう。そうすれば何選ぶ生き方をせず、欲得に左右されない、また、生死の苦界に止まることないありのままの人生があると思います。
昔、中国の禅僧がこう申しました「岐路に立ったらサイコロで決めなさい」と。流れるままに、ありのままに、分別つけず、弥陀の本願だけに向いていればただそれだけでいいのです。さて、これは呑気な話でしょうか。



2017年9月8日