浄土宗 伝授山 長応院


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第65回 米住音楽家M子さんとのメール

最近はパフォーマンスとインスタレーションを融合したようなものの展示とコミュニティーエンゲージメントに興味が移行しているところです。

日本でもこの点はアートの動向です。
物的でないもの、消えるもの、関わりあうもの、、もう仏教の縁起論ですよ。

そうなんですか!
私は個人的にコンテンポラリーのコンサート等で演奏していると、お客さんの多くが音楽家だったり、文化人ばかりだったりして、一般の家の出身の者としては、やっぱりなんか不自然な気持ちになってきたというのがきっかけでした。また、もっと一般の方々との接点を築きたい、またコミュニティーと深く関わりあって音楽を作っていた子供のころの、昔の自分の原点に戻りたいという事も原動の一部なのだと思います。日本ではどうしてそのような移行がおきてきているのでしょうか。興味はありますので、お時間ある時にお話していただけると嬉しいです。

宗教とReligion、音楽とMusic、美術とArt、写真とPhotographyなど語源からの概念の違いにやっと目覚めたといいましょうか、例えば、東西の個の理解には異なる問題があります。もう戦後の物的なコンテンポラリーアートにおける個人の表現に的をえる方法には日本はもう飽き飽きとした感じがします。日本には過程や感触に対して意識が本来高い感覚を持っています。宗教観や風土などにおける感性は本来、個を消すないしは事象や物に対して関係性や共有感に、つまり他に自を覚える向きを持っている、そんな源に気づき始めた今でしょう。これは、3、11後の不安に対する資本主義の頼りなさを露呈しております。自発的な自己表現的な美術はうんざり感を持っているのでしょう。この回帰現象らしきものは色々な分野で起きています。現代美術といわれるものはギャラリーではなく外へ飛び出し、共有化し、物は消えゆくものとして執着せず、先の関係性、過程、物は移り行くものとして意識が変化しました。これは、もう仏教でしょう。因縁生起(縁起)でしょう。こうした精神性を表す美意識の向きが今感じられます。原点回帰とも言うのでしょうか。

ご丁寧な返信ありがとうございます!
確かに”日本には過程や感触に対して意識が本来高い感覚を持っています”よね。周りを気を配り良く観察しなければいけない社会構成の中で育つせいか、細かいところに良く気がつく、気配りが届く繊細な感覚を日本人は基本的に持っていると思います。その点”個”の感覚、表現は比較的弱い為、世界的に見た時にはいつもその感覚融合が大切だなあ、と思ってきました。

西洋では”個”がとても大事な為、もともと自我が強かった自分はその性質を活かしつつその”個”に関しての感性を深く追求してきましたが、やはりその”個”がと日本的なコミュニティーや社会、人と関わるといったところの正反対な立場の”個”ではなく、共通点を見つける意味での”個”につなげていきたい、活かしていきたいといったところにきているのだと思います。個は社会があってこその個であり、社会も個があってこその社会というか。私もアメリカ式の”個”ばっかりの感覚には飽きてきているのだと思います。

社会的に”個”が活かされにくい日本では、いままでアートを通して”個”を見出す事がきっと多かったのでしょうね。それが近年のあらゆる災難を通して、自分にはどうしようもない何か大きな力に動かされる日々を通して、”自発的な自己表現的な美術はうんざり感を持って”きているのかもしれませんね。回帰現象ですか。。。”現代美術といわれるものはギャラリーではなく外へ飛び出し、共有化し、物は消えゆくものとして執着せず、先の関係性、過程、物は移り行くものとして意識が変化しました”という事ですが、どのようにその意識の変化が作品に現れてきていると思いますか?日本に帰った時にそれがどのように影響しているのかを見る事ができればいいなあと、思います。

まあ、一部の感覚が鋭い作家はまたは、そういう人が少しずつ増えてきたということでしょうか。個体美術が動きや形のないものへ変わり、一人でやっていた作家は複数とユニットやグループで、北川フラムさんのようにアートの個体を集めて環境に変えたり、中央集権の東京からとびだして田舎へ回帰するなどなど、ギャラリーの個室でははけ口がなくなってきたような感じがします。アートらしさの変貌がらしさの曖昧さに自己反省しているがの如くです。芸術が非芸術にならんとするところに怖さを感じ動揺しているかのようです。この辺りが、アメリカの美術と違う「あってないもの」への精神論の高さになるでしょうか。消えゆくものの儚さをあの時あらためて学んだようです。

北川フラムさんのウェブサイト見ました。とても素敵ですね!このようなアートディレクター/グループの方がいらっしゃるのですね。誰もが楽しめるアートや試み、そしてクリエイティブな人間には当たり前に感じられるような、でも一般にはなかなか経験できないようなアート空間を日常や環境に持ってくるようなプロジェクトや宿泊施設など、経験型でのアート作成のアプローチにとても共感を感じます。私も幼い頃からガウディが大好きだったのですが、どのような経由で好きになったかも覚えていないのですが、ひょっとしてフラムさんがガウディブームの原点だという事で(1978-1978にガウディ展、私は1976生まれです)、この方の影響をどこかで受けていたのかもしれませんね。というのは、昔から”好きな音楽家は?”と聞かれると”音楽家よりもガウディが好き!”と答えていたぐらい好きなんです。そしてその理由が、やはり彼のアートがパブリック、そして人が毎日生活する中で活かされるもの、毎日の生活とアートとの境界を超えるものだからですね。あと、アートがアイディアだけではない、技術やクラフトマンシップに支えられたしっかりしたものであるのに関わらず、”上から見下す”感がないとても地に足のついた、さらにとてもオーガニックな表現法で表されている事に、感動したのを覚えています。
文化発展のためにもアートには色々なアートが常にあるべきとは思いますが、自分が今どこに行くか、どう向かっていくか、いけるか、考えさせられているところです。

ようするに、こう言った方たち(フラムさんや総合ディレクターと言われるような)もアーティストという時代です。先に書いた通り「個」を消す方向性が大きなアートとして認識されるようになった事が最近面白い状況でしょう。かつては、「個」の表現に課題をおかれたアーティストばかりでしたから。どこかすると仏教的な風土が(個にたいして)あると思います。友人の一人(美術家)は、地方で町おこしのプロジェクトを表現として行っています。その土地の風土歴史、人の輪、政治行政、を関係付けて(自身にもどうなるかはわからない)転がるように展開していく面白さがあります。ガウディのように過程をも表現としてとらえる事や美術の中での完成は何を意味するのか、近いものがありますね。こうした多くなった芸術祭の企画も町の参加、企業や交通や行政の参加、、周囲を巻き込みながら何かを作り上げていくあり方は単なるキューレーションの仕事にとどまらず、昔のハプニング(ジョンケージもそうでしょう)や具体派の頃の表現に似てどうなっていくかわからない、とどまらない、自他関わる事、公共性、政治、環境、など社会と人間の再確認への美意識でしょう。港千尋 アートブリッジ 、吉原悠博 写真の街シバタ で検索してみてください。自己表現に執着したりコンセプテュアルな道程に想いを馳せる作家はもうなんか古いというかつまらないようです。いやこれは、日本の状況です。日本人の本来の気づきに気付いたというかアイデンティティーの問題でしょう。アメリカにいるまずとコンセプトだ、ということがおおいですよね。
内藤礼 でも検索してみてください。彼女はほんとうにそう意味でいい仕事をしています。自然にまかして個を消していきます。友人の泉イネさんも画家から形に残らないダンスやパフォーマンスを企画しその後、佐渡でコミュニティーを作るなど生活をアートにしてしまっています。生きる事がアートだという事は意識の問題ですね。同化しています。これは、中々西洋では解釈されにくいです。ただ、日本の場合、あの3、11以降(いまも地震が活発化している)このような作家が多くなってきた背景の一つに、個の理解がときはなれた、または、自他の同化性の大切さを感じてきたのでしょう。生死と美術の再確認です。

返信が非常に遅れてしまい失礼しました。色々なアーティストのご紹介をしていただいたので、ウェブサイト等を見てからメールをと思っているうちに突然忙しくなり、バタバタしておりました。数日前モンタルボのレジデンシーに戻ってきてようやく一息ついたところです。今、泉イネさんと、内藤礼さんのサーチをしていたところです。内藤さんの出ている(?)映画もぜひ見て見たいものです。

アートブリッジは、何となく聞いたことがあるなと思ったらやはり、ロサンゼルス時代からの親友が、最近アートブリッジに記事を掲載するようになっていたので、それで聞いたことがあったのでした。やはりどこかで接点があるものですね。

日本のアーティストさんたちのウェブサイトの内容などは、ちょっと詩的で目的や作品、行動内容がすぐにははっきりわかりにくいのでもうすこしリサーチをしたいなと思いますが、特に泉イネさんや、内藤さんの作品や活動には何か惹かれるものがあります。私自身が今、芸術的なトランジションの時期でコミュニティーを通した活動やコラボ作品への思い入れは変わらないものの、この”個”というものを再び向かい合って深めなければいけない時に入っているようなので、”個”からどんどん離れていく方々の作品を見るのは、とても不思議な気持ちです。どこか懐かしいというか、儚いというか、まだ自分でもはっきりわかりませんが。東北の田舎で育ち、個というものを全面的に押しつぶされ、その押しつぶされた個が集まる圧力で歪んだ社会で生まれた自分の原点から、遠く離れたアメリカでも、私はまだ逃れられないような気がするのです。それから必死に背を向けて走ってきたところから、振り返って、過去と現在、個人と社会、原点と世界をどうにか昇華させなくてはいけないような気がするこのごろです。

なるほど。風土ですね。わかります。それは大切だと思います。東京という大都市にはうんざりするほどに情報があふれ個々の欲のぶつかり合い、その反動に個の執着から離れていくものが多いということでしょうか。都会の風土ですね。ただし私の申す個とは風土を語る以前の存在としての個です。今まで個を信じてそれをおもてに表すことが表現、ないしは美術の元だと思う人が多かったように思いますが、はたして個はあるのかないのか、という疑問です。これは仏教的な感性です。あなたがいるから私がいる、私がいるからあなたがいる。という理解です。自他が平等に存在をあらしめるという仏教的なそれこそ風土に気づきを感じている日本の作家の動向かもしれないと思っています。ゆえに、過去の自己表現の過信から逃れ、共同していくところの価値観を見出しているのだと思います。 まさにタイミングといいましょうか、アメリカも立ち返る時期を迎えたのと一緒で、アメリカと日本はそれぞれ固有の国家であり民族だ的な、または、アメリカへの憧れもうすれ、日本の改憲論もそうですが、固有の美学の模索の過程にあるのでしょう。個の扱い方、です。

早速の返信ありがとうございました。
"はたして個はあるのかないのか、という疑問"ですね。なるほど。
あるとは思うのですが、ひょっとしたらそれに疑問を抱くというところが肝心なのかもしれませんね。”個の扱い方”なのでしょう。 レジデンシーに来てから悩む日々です。まあ、来る前から悩んでいたのですが。悩むためにレジデンシーに来たようなものなのでそれはそれでいいのですが、不思議です。今まで悩む時間もなかったので、ある意味悩めるというのは贅沢なのかなと思いながらも、独り言が多い時間を過ごしております。自分にとって音楽をやる意味というのがどういうものであるのか、という本質的なところから疑問を抱いているこの頃です。

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」と言いますね。仏教的には「我思う、ゆえに我無し」だと思うのです。ギリシャ哲学以来の流れは、どうしてもこの我ありきに基づいています。東に流れた哲学は零の風土にその我に問題提起をしているとも思います。龍樹(ナーガルジュナ)の空論は徹底的に言葉遊びをしながら結局実体は無いことを導き出しています。近代、西洋ではやっとヴェトゲンシュタインらと共有感を見出しています。 個の問題もしかり。日頃、自分は確かにあるがごとく振舞っていますが、やはり確信的な自分は証明できません。だからこそ、言語を使い、身振り、行動、行く手は表現という美術の原点に当たるように振る舞うのでしょう。確固たる自分があってその表出に表現があるのでなく、不確かな自己がゆえに表現すると考えるのが違いの特徴でしょう。 観念化、概念化された解釈に自分という存在も「自分」と言う記号でどこか納得して固定されていますが、解くとその根拠は不確かです。五感、六感ないしは九感に至るまでその感性の統合が自分を形成しているとはいえ、儚くも無常で常に自分は変化し続けています。なので確固たる自分は無いと思う方が自然です。あるとすれば妄想です。と、思うのですが。音楽をやる意味。それは自己証明なのかもしれません。初めから存在する美にいどむものでも無いでしょうし、人間無一物で生まれた訳ですから、縁起と選択によって自分の証明としてあるのかもしれませんね。創造の裏にはそういうカラクリがあるのでしょう。

2017年4月23日